第15話
四階六番柱の記入台にいつもいる常連客のひとりであるマスターが、夏季の母と弟のことを何か知っているかもしれないと聞いた。
そういえば以前、彼女のプライベートなことについて言及していたことを私は思い出した。
いろいろ事情があるとか、彼女は勉強がよくできる子なんだとも言っていた。
「マスターと君のお父さんとは知り合いなの?」
「お父さん、最近はめったに行かなくなったようだけど、マスターのお店にはずっと昔からの常連さんなのよ」
「何ていうお店なの?」
「フナキっていうの。駒形橋のまだ向こうのほうの隅田川沿いにあるお店」
「どんなお店かな?」
「うーん、何ていうのかな?小料理屋さんっていうのかな、カウンター席だけの小さなお店よ」
「行ったことがあるんだね?」
「昔ね、小さいころよ」
父がマスターの店の常連客なら、夏季の家庭の事情はある程度知っているのも頷ける。
「でも僕が君のお母さんのことをマスターに訊くのもおかしな話だよな。マスターからすれば、何で場外馬券売り場のスタッフが店の常連客の別れたヨメさんのことを訊くんだってことになるからね」
私の意見に夏季も「そうね」と相槌をうったきり名案が浮かばないようだった。
「ともかく遅くなるといけないからそろそろ帰ろう。今度偶然を装ってそのマスターの店に入ってみるよ。
そして君の話題をさりげなく出して、お母さんのことを訊いてみるとかね」
私も今はそれくらいしか方法は浮かばなかった。
「分かった。ありがと」
私と夏季はベンチから腰を上げ、隅田公園から言問通りを西に、スカイツリーに背を向けて歩いた。
大勢の観光客や週末を楽しむ人々でごった返している浅草寺周辺を避けて、国際通りに出てからいつもの場所まで夏季を送って行った。
「お父さんとその彼女さんと仲良くね」
「無理!絶対に無理だから」と夏季は即答した。
「仕方ないな。じゃあおやすみ」と私は言った。
国際通りのいつもの場所まで夏季を送って行ってから、再び言問通りを戻って隅田公園に入り、川沿いの土手の遊歩道を南千住の方へ向かって歩いた。
次第に遠ざかっていくスカイツリーの灯りを時々振り返りながら、自分の頭の中にある整理しないといけないフォルダーの優先順位を確認してみた。
平日の仕事を探さないといけない問題や、愛媛の実家の両親や妹の近況などよりも、江田夏季が現在置かれている家庭環境のことや、十年以上も前に離れ離れになってしまった母と弟の所在についてなどのほうが、フォルダーの位置が前にあった。
女子高生が毎週土日に場外馬券売り場にやってくるなんて、絶対的な超イレギュラーだ。
両親の離婚があったとしても、血の繋がった母や弟と会いたいのに居どころが分からないというのは、巨大な不幸であると私は思った。
四ヶ月余り前に、他のスタッフの誰よりも真っ先に館内で私の目に留まった夏季。
マスターの話では、私が最初に注意した日の少し前から馬券売り場に来るようになったとのことだが、彼は他にも夏季のプライベートなことを知ってるフシがあった。
ともかく近々、マスターが長年営むという「フナキ」という店に、知らないフリをして入ってみよう。
土日は必ず馬券を買いにやって来るマスターだから、店は平日のみ営業しているのだろう。
そんなことを考えていると、南千住のひと間のアパートに着いた。
今夜はコンビニ弁当と缶ビールでも買って簡単に済ませて、夏季に初めて「お客さん、失礼ですが二十歳になってますか?」と声をかけた日から今日までのことを思い起こしながら早く寝ようと思った。
夏季のことを考えると、決して悪くない大きな疲労を感じるのであった。
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