第10話
日曜日は特にトラブルも無く業務を終えた。
江田夏季は相変わらずいつもの場所から動かずに、ときどき常連客と言葉を交わしながら最終レースの実況が終わる迄館内にいた。
午後からも巡回中に何度か顔を合わせたが、言葉は交わさず彼女からもアクションは無かった。
昼過ぎに、まわりの常連客に聞こえないような早口で「今日もあのベンチにいるよ。来てください」と、丁寧語とタメ口を混ぜて言ったことを忘れているかのような素振りだった。
ともかく最終レースが終わって急いで着替え、17時になって館内から出て浅草寺を抜けて昨日の場所へ向かった。
しかし今日の江田夏季はいったいどうしたというのだろうと、言問通りを隅田川方面に歩きながら考えた。
これまで彼女に対して服装のことで何か言及したことはないし、容姿を気にしたこともなかったが、あまりの変貌ぶりであった。
隅田公園に入り、土手から隅田川の柵沿いを見ると、昨日と同じ場所のベンチに江田夏季はポツンと座っていた。
「来てくれたんだ」
私の姿を見て彼女は言った。
「待ってるから来てって言われたから、来ないわけにはいかないよ」
「ごめんなさい」
「謝る必要はないよ。どうせ僕は暇なんだし」
私は笑いながら言い、「でも帰れないとか、嫌なんだとか言ってたけど、どういうことなの?」と訊いた。
「誕生日なのよ」
「えっ?」
いきなり誕生日と言われても、誰のことなのか分からない。
「夏に生まれたから夏季なんです。今日が誕生日なのよ」
いつものように江田夏季は丁寧語とタメ口を混じえて言った。
「じゃ、お父さんがケーキを用意して待ってるんじゃないの?帰らないと」
「だから嫌なの」
少し強い口調で彼女は言って、真向かいにそびえるスカイツリーの方に目を移した。
スカイツリーはこの時間だとまだ点灯していなかった。
目の前の隅田川を屋形船がゆっくりと言問橋の下を潜って吾妻橋の方へ流れていった。
レインボーブリッジに着くころには陽も沈んで、しばらくすると鮮やかなイルミネーションが灯る。
「お父さんと仲が良くないのかな?」
数分間の沈黙に耐えられずに私は訊いた。
「ううん、仲は悪くないよ。お父さん、優しいし」
「それなら何で帰るのが嫌なの?」
父親との親子仲に問題がないのに帰るのが嫌だと言う意味が理解できない。
だが、私の問いかけに考えている様子は窺えたが、彼女はからの返事をはなかった。
「それより今日のその格好はどうしたの?」
私はこれ以上彼女の家庭のことに突っ込んで訊くことは諦めて、これまでと一変した今日の服装について訊いた。
「生まれた日くらいはキチンとした服を着たかったの」
江田夏季はすぐに返事をした。
そして「そうそう片山さん、今夜は晩御飯ご馳走させて。すっごく美味しいパスタのお店があるの」と言った。
「ご馳走するって、君はまだ高校生じやないか。それに今日は君の誕生日だから、僕の方が何かお祝いしないといけない立場だよ」
「いいの。今日、大穴当てたからお金はいっぱいあるよ。だから少しだけ付き合って、お願い。パスタ食べたら帰るから」
江田夏季は拝み手で言うのだった。
「大穴当てたからって、そんな言葉、普通の女子高生が口にするもんじゃないよ。何から何まで不思議な子だなあ」
私は呆れてしまって笑いを堪えられなくなった。
「じゃ、行こう。仲見世の通りの向こう側にあるの」
「分かったよ。でも食べたらすぐ帰ろうね。お父さんが探しに出てて、もし見つかったらボコボコにされるから」
昨夜もこんなこと話していたなと思いながら私は言った。
「大丈夫よ。お父さん、今いい人と一緒に食事してるんだから」
「えっ、どういうこと?」
私の問いかけを無視して、江田夏季は言問通りを渡って浅草寺に入って行った。
夏の日曜日の十九時前はまだ宵の口、大勢の観光客でいっぱいだった。
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