第8話



「家族なんていないってどういうこと?」


 私はもう一度訊いた。


「う~ん、どういうのかなぁ、家族って何人もいるものでしょ?でも私んちはお父さんだけしかいないんです。だからふたりだけって家族じゃないよね」


 江田夏季は丁寧語とタメ口を混ぜて言った。


「お母さんはどうしたの?こんなこと、ストレートに訊くのも悪いかなと思うけど」


 プライベートな事柄に立ち入るほどの関係ではもちろんないし、彼女にしても訊かれたくないこともあるだろう。


 だが、私は江田夏季に何かしら放っておけないものを感じていた。


 私の問いかけに答えることも考える様子もなく、再び彼女は黙った。

 隅田川を挟んで目の前のスカイツリーのライトが灯った。


 言問橋の向こうに陽が沈み始め、やがてオレンジ色の夕焼けを伴いながら消えた。


 私と江田夏季は十数分間も黙ったままその景色を見ていた。


「お母さんのこと、訊いて悪かったかな?謝るよ」


 私は沈黙に耐えられずに言った。


「ううん、大丈夫。お母さんは弟と何処かに住んでいるはず。う~ん、はずじゃなくてどこかにいるの。でも分かんない」


「いくつの時だったの?」


「えっ?」


「お母さんと弟さんが家を出たのは君がいくつの時だったの?」


 江田夏季はしばらく考えてから、「多分・・・私が幼稚園のころだった気がするの。記憶が曖昧だけど」と言った。


「記憶力は天才って前に言ってたのに」


 場外馬券売り場で最初に彼女に声をかけた翌日だったか、前日に伝えていた私の名前を覚えていたことに驚いたことがある。


「あれは冗談だったの。だって、片山さん、写真と名前の書いている身分証明のバッジっていうの?それを胸に付けているじゃないですか」


 そう言って彼女はフ~とため息を吐いた。


「あっ、そうか」


 私は苦笑いをした。


 江田夏季の両親はおそらく離婚したのだろう。

 母親は息子を連れて出て、夏季は父親のもとに残った。

 それが彼女の意思だったのかどうかは分からないとしても。


 でも私はそういったプライベートな込み入ったことについては、これ以上の問いかけはしなかった。


「そろそろ本当に帰らないといけないよ。もう完全に陽が沈んで夜なんだから。僕も未成年の君と一緒にいて、万が一お父さんに見つかったら殴られるからね」


 私は冗談交じりに言った。


「私のお父さん、ヤクザだよ。見つかったら、片山さんきっとボコボコ」


「ええ~?」


「嘘ですよ」


「オトナをからかうんじゃないよ、ホントに」


 私たちは笑いながらようやくベンチから腰を上げた。


 川沿いから土手に上がり、隅田公園の遊歩道を川の下流方向へ歩いた。


 吾妻橋の手前で公園から出て、浅草寺の雷門のほうへ向かった。


「片山さんちと反対方向だから、もうこの辺でいいですよ。私んちはすぐそこだし、明日もまた会えるから」


「会えるからって、また来るの?」


「トーゼン」


「何だよその言い方、高校生のくせに。僕の裁量ひとつで退場させられるんだからね」


「ごめんなさい」


 私が冗談半分にでも脅すと急にしおらしくなったりするから、江田夏季が可愛く思えたりするのであった。


「もう大丈夫です。このホテルの通りを曲がったところのマンションだから」


 国際通りを少し北に上がったところにある、浅草ビューホテルの裏手のマンションが住まいだと言う。


 場外馬券売り場とは目と鼻の先である。


「片山さん、ありがとう。明日は午後から帰れると思うから」


 別れ際に江田夏季が言った。


「無理して来なくていいんだよ。来ないことのほうが大切なんだから」


 ハーイと言い残して彼女は背を向けて帰って行った。


 何という妙な会話なんだろうと、二人のやりとりを反芻しながら私は思った。


 国際通りを渡って大勢の人混みの中に入っていくと、夜景を見ながら歩いて帰る気がしなくなり、わずかひと駅をつくばエクスプレスに乗って帰った。


 つり革を持ちながら窓の外の暗闇を見ていると、江田夏季は今ごろ何をしているのだろうと思うのであった。

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