第7話
夏競馬に突入した最初の土曜日は五階フロア担当だったので、江田夏季のいる四階六番柱あたりには、午前に一回、午後に二回しか様子を窺えなかった。
でも考えてみれば、私が別に彼女のことを気にする必要はないのだ。
たまたまこの場外馬券売り場にはイレギュラーな存在に見えたから、気になって声をかけただけである。
それに何だ、この日の態度は。
午前中に四階を覗いた際に「今日は早く帰りなさい」と忠告すれば、「フン!」と反抗的な態度だし、午後も帰らずにいたので「女子高生なんだから、休みの日は遊園地とか動物園とか行かないの?彼氏に連れて行ってもらうとか」と言うと、「彼氏なんかいないってこの前言いましたよ。失礼です!」と機嫌が悪くなる始末であった。
「それならアキバとか原宿とか行けば?僕はまだ東京に来て日が浅いからあまり知らないけど」とさらに言うと、「うるさいなぁ、放っておいてよ」と言う。
あまりの態度の悪さに私は少し腹が立ち、「そんな言い方したら退場させるよ!」とたしなめると、「ごめんなさい、言いすぎました」と、一気にしおらしくなったりするから分からない女の子である。
そんな私と江田夏季とのやりとりを見ていたマスターが、「この子は勉強がよくできるんだよ。だから大目にみてやってよ」とピントのズレたことを言ったりする。
そんなふうなやりとりで、夏競馬の開催がしばらく続いたある土曜日のことだった。
この日仕事を終えてから浅草寺の北側を抜けて言問通りに出て、隅田川に向かった。
日が長くなって、夕陽が沈むまで随分と時間があるので、南千住のアパートまでブラブラと歩いて帰ろうと思った。
言問橋の手前から隅田川沿いの土手の遊歩道を歩きながら様々なことを考えた。
東京に来て3ヶ月が過ぎた。
土日の場外馬券売り場のバイトだけの収入では蓄えが少しずつ減っていく。
平日は本を読んだり都内の散策や東京周辺の名所をまわったりしていたが、それもそろそろ飽きた。
平日の仕事を探すか、故郷の愛媛に帰ってしばらく考えようか、隅田川を眺めながら想いを巡らせた。
その時、視界に江田夏季の姿が飛び込んできた。
遊歩道からさらに降りた隅田川の柵沿いにあるベンチに座って、ボンヤリと対岸を眺めている女の子の姿。
この日も彼女はいつもの履き古したジーンズにグレーのTシャツだけの格好で、午前十時過ぎからメインレースの実況中継が終わるころまで館内にいた。
間違いなく江田夏季であった。
私は遊歩道から降りて彼女の方に近づいた。
「何してるの?」
私の呼びかけに、目を細めて遠くを眺めていた江田夏季は、驚いた様子も見せずにゆっくりとこちらを向いた。
「隅田川とスカイツリーを眺めているんです。片山さんこそ何をしているんですか?」
無表情で彼女は言った。
「アパートまで歩いて帰ろうと思ってね。もうすぐ綺麗な夕焼けが見れるだろうから」
「私も夕焼け空が好き。夕陽が沈んでいく景色が綺麗だから」
「綺麗だよね。でもちょっと切ないというか、寂しいけど」
「そうね」
江田夏季は少し考えてから相槌を打った。
私は彼女の隣に座って隅田川の対岸を眺めた。
スカイツリーがまるで目の前にあるかのように大きく聳え立っていた。
ふたりともしばらく黙ったまま、隅田川の川面と対岸の暮れゆく街を眺めていた。
時刻は18時半になり、太陽はこの日の仕事を終える準備に入った。
「そろそろ帰らないと家族が心配するよ。夕飯時だし」
私もそろそろ腰を上げようかと思いながら言った。
「まだ帰りたくないのよ」
江田夏季は正面を向いたまま言った。
「家族と喧嘩でもしたの?」
「家族なんていないもん」
「えっ、どういうことかな?」
だが、彼女は私の問いかけに答えずに「スカイツリーが綺麗ね~」と言うのであった。
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