第6話
結局、春のG1レースのラストの日曜日は、江田夏季が午前中に来館して午後になって「今日は家に帰れる」と常連客たちに言い残して消えた訳は分からずじまいだった。
マスターもこの件については「そのうち分かるよ」と曖昧な返事しかしてくれなかった。
いったい彼女にどんな事情があるというのだろう。
この日の仕事のあと、先輩たちに飲みに誘われていた。
五月の連休前にこのバイトを始めてから、一度だけ吾妻橋の近くの焼き鳥屋で私の歓迎会を兼ねた飲み会があった。
その時も、二十人ほど在籍しているスタッフから集まったのは十人余りで、仕事の後のそれぞれの都合があるにしても、明らかに外されているスタッフもいた。
それは当該者の態度にもあると思われたが、スタッフの数がそんなに多くない職場でもややこしい人間関係が存在していた。
今回は国際通り沿いにある居酒屋に、私を含めて六人が集まっていた。
「お疲れ様~、やっとG1レースも終わったね」
乾杯のあと岡本スタッフが言った。
「でも夏競馬も同じよ。地方の競馬場に替わるにしても、三場開催が続くのは同じだもの」
今夜の紅一点、中川女史が言う。
夏競馬は関東では東京や中山競馬場、関西では阪神や京都競馬場がしばらくの休みに入るにしても、小倉や中京、福島や札幌などの地方での競馬開催が続き、三か所での開催週がほとんどなので、季節が変わるだけと言えなくもない。
「でもまあ、G1の混雑はしばらくないからね、気持ちがちょっとゆっくりするね」
和田スタッフが言った。
彼は証券会社を定年退職してこのバイトに来ているスタッフで、昔は大口顧客を持っていて、バブルのころはボロ儲けをしたらしい。
私は、場が少し盛り上がったころに江田夏季のことについて切り出してみた。
「四階の六番柱のところに面白い常連さんが四、五人いますよね」
「ああ、マスターとか社長とかがいるテーブルのことかな?」
尾高スタッフが言った。
彼も大手企業で海外赴任を経験するなど、かなりの要職にいたようだが、定年退職のあとここで土日のバイトに来ている。
ここは競走馬の鉄火場でありながら、職場スタッフは意外なことに高学歴な人が多く、経済的には十分な余裕があるが小遣い稼ぎと暇つぶしのような意味でバイトに来ているというわけである。
「あそこには予想紙に色鉛筆で印をいっぱい塗りまくるおかしな客がいてね、ヌリエモンって俺がアダ名を付けたんだよ」
尾高スタッフがさらに言った。
「うまく名付けましたね」
「今度テーブルの彼の予想紙を見てごらん。赤青黄色とかで塗りまくって、まるで信号機みたいだから」
一同は大笑いとなった。
「あそこの常連さんたちのテーブル近くに女の子が時々いますよね」
私の言葉に皆がグラスの手を止め箸を休めた。
「知らないなあ」
岡本スタッフが言い、他の人たちも気が付いていない様子であった。
「私は最近よく見かけるわよ。いつも古い破れたジーンズの女の子ね」
中川スタッフはさすがベテランであり、女性目線で気づいていた。
「そうなんです。中川さんは話しかけたことありますか?」
「話しかけたことはないんだけど。いつも同じ場所にいるから、あそこの常連さんたちの知り合いって周りの人たちは思っているかも知れないわね」
そう言われてみると、いくら未成年かも知れないと職員やスタッフが思っても、いつも同じ常連の近くにいて、時には昼ご飯を一緒に食べに出ている姿を確認していれば、誰も何も言わないだろうと私は思った。
この夜は彼女のことについてはこれ以上の話をするのを控え、楽しい飲み会はこの後も続いた。
次の土曜日、この日は前週と違って五階フロア担当となった。
最初の休憩タイムのあとに、五階に上がる途中で四階フロアの常連客のテーブルあたりを覗いてみると、やっぱり江田夏季は来ていた。
私は近づいて声をかけた。
「毎週来るんだね」
六番柱にもたれて新聞を見ていた江田夏季はハッとした表情で私を見た。
「今日はいないと思っていたのに」
「五階フロアにいるよ。今日もこの前みたいに早めに帰るんだよ」
「うるさいなあ、私の勝手じゃん」
「そんな言い方ないだろ。便宜を図ってやってるのに」
「何ですか。便宜って?」
「ともかく毎週こんなところに来ちゃダメだって」
そう言ってから私は上のフロアの持ち場に向かった。
でも背後から「フン!」という生意気な声が聞こえた気がして、振り向くと彼女が慌てて予想紙に目を移したところだった。
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