第5話


    第五話 家庭の事情?



 四階フロアの六番柱近くの記入テーブルには、昨日と同じ常連客たちが集まっていた。


 そのうちのひとりで、他の常連客が「マスター」と呼んでいる年配男性の言葉、「あの子は特別だ。そしてその理由は言えない」の意味が分からない。


 あの子とは問題の女子高生のことである。


 当の本人は柱にもたれたまま予想紙とオッズモニターを眺めているが、誰がどの角度から彼女を見ても、こんなところでは場違いに思うはずだ。


 そして実質は違法行為なのだ。


 それを知っているのは僕とこの記入テーブルに集まる常連客だけということか?


 鉄火場にとっては全くのイレギュラーである。


 彼女の今日の服装は昨日と同じ着古したジーンズだったが、白とブルーの鮮やかなチェック柄の真新しそうなシャツをグレーのTシャツの上に引っ掛けていて、意外にセンスの良さを感じた。


 ただ、靴は履き古したペチャンコの紺のスリッポンというのが、私としては残念に思うのであった。


 いつまでもボンヤリと眺めているわけにはいかないので、「あの子は特別」という訳は今度あらためてマスターに訊いてみることにして、ともかく彼女に近づいた。


「今日も簡単に昼ご飯を奢ってもらったりしちゃダメだよ。いい人ばかりじゃないんだから」


 私はひと言だけ伝えてその場を離れた。


 すると背後から「うるさいなぁ」という彼女の声が聞こえた。


「今なんて言ったの?」


 私は振り向いて睨んだ。


「何も言ってないもん」


「名前を教えてよ。他のスタッフからもし訊かれたら、僕に了解をもらってることになっているんだからね。君の名前くらい知っておかないと」


「この前学生証を見せましたけど」


「名前まで見なかったからね」


「夏季です。江田夏季」


「江田さんね、ありがとう。それで、来週からもここに来るのだったら、お父さんとか年上の彼氏とかに連れて来てもらったらどうなの。それだと問題ないんだけど」


 私は提案してみた。


 だが、即答で「そんな人、いないもん」と言うのであった。


「お父さんはいるだろ?お母さんだっていいんだよ。ともかく成人の人と来ればいいんだから」


 私の言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、彼女はフンという顔をしてオッズモニターの画面に目を移した。


 私はいったんその場を離れて、四階フロア全体の動哨警備をすることにした。


 下りのエスカレーターの担当スタッフの前を通り、フロアの南端に設けられている男子トイレのチェックに入った。


 トイレの中で喫煙をしている客がいないかの確認と、ごくまれに便器に汚物が残っていたりすることもあるからだ。


 喫煙者がいれば厳重に注意しなければならないし、汚物で便座や床がひどい状態だったら清掃担当に声をかける。


 そしてトイレの巡回が終われば、次は発売機と払戻機を南端から北端までゆっくりと見て回る。


 それが動哨担当の仕事である。


 発売機や払戻機を見て回るのは、購入した馬券を取り忘れたり、釣銭が出てきているのに気づかずその場を離れてしまう客が結構多いからである。


 とりわけ高齢者はその傾向が強く、窓口から離れてしまってからすぐに気づかないと、あとの客がそれを持ち去ってしまうというトラブルが発生する。


 意外にこの種のトラブルが多いので、窓口担当のスタッフだけでなく、動哨担当も発売機と払戻機には常に注意を払って回っている。


 さて、一周回ってきてから江田夏季のいる記入テーブルのあたりに戻ると、彼女の姿は消えていた。


 昼の時間にはまだ早いし、トイレにでも行ったのかも知れないと思っているうちに、私の休憩時間となった。


 スタッフの休憩室はいったん一階に降りてから、職員やスタッフだけの入り口から入って四階に上がったところである。


 休憩室に入ると、岡本先輩が「片山君、今日は夜、予定ある?」と訊いてきた。


「特にないですけど」


「じゃ、一杯飲んで帰ろうか。尾高さんと和田さんと中川さんがオッケーなんだよ」


「分かりました」


 たまには先輩たちと飲むのも悪くない。


 私はアルコールが好きだし、二十人近くいるスタッフの中で私に声をかけてくれるということは、この職場に今のところは順応しているということだと思った。

 

 休憩を終えて四階フロアに戻り、六番柱の常連客の記入テーブルあたりに行くと、江田夏季はまだ戻っていなかった。


「彼女、帰ったんですか?」


 マスターは馬券を購入中のようで、私は常連客のひとりでヌリエモンと呼ばれる中年男性に訊いた。


「彼女、今日は昼から家に帰れるからって言ってたからね。帰ったんじゃないかな」


 どういう意味なんだろうと思っているとマスターが戻って来た。


「女の子、今日はもう退館したんですね。午後から家に帰れるからって今聞いたんですけど、どういうことなんですか?」


 するとマスターは、「それはまあいろいろと家庭の事情があるがや。そのうち分かるよ」と言うのであった。


 私は窓口担当者と交替をしないといけないので、それ以上は訊かずにその場を離れた。


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