第3話


    三 常連客の多い鉄火場



 私の注意を素直に聞き入れて退館してくれたのなら、それは良かったと自分の仕事に多少の満足感があった。


 だがそれは早とちりであった。


 四階の動哨担当から立哨担当へと替わり、お立ち台に上がって館内を見渡していると、あの女の子がさっきの記入テーブルから少し離れた場所にいた。


「中川さん、ちょっとだけど替わってもらってもいいですか?」


 近くにいた動哨担当の中川スタッフに声をかけた。


「いいわよ、どうしたの?」


「気になるお客さんが見えたので注意してすぐ戻ってきます」


 中川スタッフはこの仕事がベテランの年配の女性で、館内のことが詳しいのはもちろんのこと、トラブルの種類によってどう対処すればよいのかをよく知っている。


 ただ、相手がコワモテの男や女性だからと舐めてかかってくる客だった場合は、我々のチームの責任者である関本隊長やトラブル対応に慣れた男性スタッフが迅速に対応する。


 私はお立ち台を中川先輩に替わってもらって、さっきの女の子のもとへゆっくりと近づいた。


 館内のフロアには数メートル間隔で記入テーブルが設置されていて、客はそこにあるマークカードと呼ばれる各種類の勝ち馬投票券に記入して、前方に並んでいる発売機で購入するという流れである。


 私はこのバイトに採用されてから、六種類ある色違いのマークカードの記入方法について研修を受けたのだが、馬連や馬単は分かるとしても、ワイドやボックス、フォーメーションなどの馬券の種類がいまだに分からない。


 次第に増えてきた客の間を抜けて、彼女の記入テーブルに近づくと、そこでは五、六人が投票券と新聞とを前にしながら、近くのオッズモニターを眺めていた。


 そして彼女はそのテーブルの横の柱にもたれて競馬新聞を見ていた。

 私は近づいて再び声をかけた。


「帰ったんじゃなかったの?ダメだよ未成年は」


「また来た」


 そう言って彼女は小さくため息を吐いた。


「いなくなったから素直に帰ってくれたって思ったのに、三十分以上も何処に行ってたの?」


「牛丼」


「えっ?」


「おじさんに牛丼をご馳走してもらったの。いいじゃん、私が何しようと」


「若い女の子が知らない人に簡単について行っちゃダメだよ。ここは鉄火場だからね」


「鉄火場って何?意味分かんない」


「博打をするところって意味だよ。競馬も博打だから」


 すると、私と彼女のやり取りを横で聞いていた高齢の男性が「ニイちゃん、競馬はロマンだよ。丁半博打と一緒にしてもろたら困るわ」と言った。


 確かに競馬は血統が明確なサラブレッドが馬本来の走力を競うという意味では、競輪やボートなどとは種類が違うロマンだと思ったりもするが、金を賭けるという行為は同じである。


「まあそうですけど、こういうところには友達とか彼氏とかと来るのならともかく、若い女の子がひとりっていうのが僕としては心配なんですよ」


 私は相手の機嫌を損ねないように、意識的に笑いながら言った。


「心配ないって。ワシらは常連でな、あの子はいつも安心してワシらのテーブルの近くに来るからね。変な奴がいたらワシらが追っ払ってやるよ」


 高齢男性がそう言うと、隣の五十歳前後に見える男性も「そうそう、心配ないよ」と言うのであった。


 そういう問題ではないのだが、この人たちに何を言っても無駄だと判断した私は、相変わらず柱にもたれて競馬新聞を見ている彼女を少しだけ離れた位置に連れて行った。


「ごめん、もう一度訊くけど、本当に未成年なんだよね?原則的には何か身分証明書を見せてもらったりするんだけど、もうすぐ二十歳とかなの?」


「原則的にって、そんな難しいこと言わないでください」


「じゃあキチンと答えてくれるかな」


「キチンとって・・・私まだ高校生だから」


「えっ、高校生なの?」


 私が少し驚いた表情を見せると、彼女はショルダーバッグから身分証明書が入ったケースを取り出して、それを提示した。


 そこには墨田区内の女子高校名が書かれていた。


「女子高生がこんなところに来ちゃダメだよ。二十歳前の社会人かと思っていたけど、学生さんなら絶対にダメだな。悪いけど退館してくれるかな」


 私は周囲の客たちに聞こえないように、彼女の耳元で小さな声で言った。


「でも、私行くところがないんだもん」


「何で?ともかく家に帰ったらどう」


「帰れないの。う~ん、帰りたくないのよ」


 彼女が何を言っているのかよく分からなくなってきた。


 お立ち台の立哨を替わってもらっている中川先輩のことも気になる。


「じゃ、ともかく今日はいいから。館内の他の職員とかスタッフに万が一年齢とかを訊かれたら、片山さんに伝えていますって言って。片山って僕のことだからね、分かったかな?」


 そう言うと彼女は「はい、そうします。ありがとう」と素直に頷いた。


 立哨のお立ち台に戻り中川先輩と交替してからも、私は彼女の「家に帰れない、帰りたくない」という言葉がずっと気になった。


 彼女のいる方向を見ると、相変わらず常連たちのいるのテーブル近くの柱にもたれて、競馬新聞やオッズモニターを眺めていた。

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