第十五幕 月の舟
俺、清水宏輝は、懐かしいバーの片隅でグラスを傾けていた。派手な色の髪、百八十センチほどもある長身、長い手足。何人かが視線を向けてくるのが分かる。数年前、ここでウリをやっていた時は、相当お客がついたもんだっけ……。シュウの誕生日に初めて出会ってから数日、今日の目的はあの「柳楽さん」に会うことだ。
シュウから話は通してもらい、ある意味予約は済んでいる。ヤるかどうかは、感触次第で。——ただ、個人的に話をしてみたかった、それだけが理由だ。出会った時のあの不思議な感覚……ともすれば違和感とも言えるような、あの感じを確かめてみたい。
「こんばんは、お待たせしてしまったねぇ」
後ろから、しっとりとしつつも朗らかな声がかかる。夜の帳のような声だと思った。いや、この人が夜そのもののようだ。相手は予約の札をマスターに返し、隣に座る。こちらも挨拶を返した。
「こんばんは、いいえ、すみません突然」
「いえいえ」
あの晩は制服だったけど、今日は私服だ。年齢なりのおしゃれをしている人だと思う。けれど黒い丈長の上着に包まれたシルエットが綺麗で、好感が持てた。早速会話を切り出していく。
「初めてお会いした時、ちょっと気になっちゃって」
「嬉しいねぇ。でもぼく、気になるようなところあるかなぁ」
柳楽さんはへらりとしている。笑顔を絶やさない。不気味というにはあまりにも爽やかで、でもやっぱり、どこか違和感が拭えない。
「あなたがいた時、ここは本当に繁盛していたらしいじゃないですか」
「なに? 今もしとるよ」
マスターから横槍が入る。俺は慌てて、すみませんそうでしたと笑った。
「そうなのぉ?」
本人の方がぽかんとしている。嘘だろ……自覚なかったのかこの人。マスターが続ける。
「まぁ辞めてからの事はあんまり知らんだろうな……柳楽目当ての客は本当に多かったんだよ。しっかり引き継ぎしてくれたおかげで、シュウにも客がついてるが。柳楽がいいという方は未だにおるさ」
すさまじい人気だ。でも確かに、この一見何の変哲もないおじさんはやたらと人を惹きつける。それが気になっていたから、今日この席を設けたのだが。本人に自覚がないとは、一体……。
「なんでそんなに人気だったんです? ウリやってたとか?」
ちょっと不躾な質問だったろうか。心配になったが、相手は気にした様子もなく言葉を返してくれた。
「いいや、個人的に遊ぶ客はそりゃあいたけど。相手のご厚意でもらう以外はやってないなぁ……。まぁ遊べる相手ってだけでも人気は出るかもねぇ……ムスコのもちはいいから」
本人が一番不思議がっているのが地味に面白い。マスターはこうも言う。
「何よりは人柄だろうよ。柳楽はいつも楽しそうだ……どれだけ仕事が詰まっていても、所作や態度にどことなく余裕がある。そこに癒される人が沢山いたんだろうさ」
「なるほど……」
余裕、か。確かに余裕があるというか、懐が深い感じがする。でもどこまでも深く受け入れてくれる類のものではなくて、掬い上げて夜空に放って、笑い飛ばしてくれるような。そんな爽快感があるのだ。放りっぱなしでもなくて、一緒に飛んでくれる安心感もセットでついてくる。三日月の小舟で、空に漕ぎ出すような。
普通に勉強になる。接客業をしてるこの身には、切に響く言葉だった。
「めちゃくちゃお人好しなんですね、柳楽さん」
「そうかなぁ? ……でも確かに、自分が一番楽しんでいようとは、いつも思ってるよ。人は楽しそうなものに惹かれる、そうでないものには近づかない」
いきなり核心をついた。……確かにそうだ。いつも暗い、疲れた奴には人は寄り付かない。輝く光のような、けれど太陽よりは、夜道の月。そんな優しい輝きが、人を惹きつけるのだ。——意味を理解した俺を、三日月の微笑みが見守っていた。
「あと、ぼくは……人の温度が好きだ」
柳楽さんが静かに切り出した。
「何も、身体を重ねることばかりじゃない。優しく丁寧に扱うこと。相手を敬うこと。大事にしていると伝えること。……ぼくは、僕と関わるすべての人に、そんな体験をさせたい」
「……温度、か」
心臓を貫かれた心地がした。本当に、人の温もりというものを……注ぎ、注がれることを信じている人なのだ、彼は。信じられているからこそ、他人に「そう」できる。なんでそんな夢のような話を——。
「なんでそんなもの、信じられるんですか……」
柳楽さんは深い声で笑って、俺の目を覗き込む。
「信じられる、られないじゃない。……信じたいんだ、ぼくは」
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