第十三幕 小道の先に
街の中心部からは少し離れた土地、細い細い道を進んだ場所。午後の気だるい日差しを浴びて、「カフェうたたね」は佇んでいた。今日はここの店主である、古い馴染みに会いにきたのだ。
カラン、と軽い音を立ててドアが開く。新しい来客を告げる音にこちらを見やった店主の小路は、細く吊り上がった目を細めて、「いらっしゃい」と静かに言った。
カウンターに着いてメニューを見る。ここは珈琲に「ストロング」がある希少な店だ。柳楽はこの店の、深くて苦い珈琲が好きだった。これと、そうだな。クリームの溢れそうなシュークリームにしよう。メニューを閉じるのと同時に店主が寄ってくる。
「柳楽くん、ご注文は?」
「ストロングとシュークリームでお願いします」
はいよ、と軽く返事をして店主が準備に取り掛かる。けれど返事とは裏腹、目の奥が熱く燃えているような気がした。気のせいではないだろう。この人の中では、あの恋は終わっていない——。
柳楽が一世一代の告白をされたのは、まだ「暗中航路」でバイトをしていた時期だ。将来自分の店を持ちたい、雑貨と喫茶を兼ねてやりたいと言う柳楽に、
「ならうちでも働いてみたらいいよ」
そう声をかけてくれたのが彼だった。
小路は柳楽より少し年上で、両親のやっていた喫茶店を手伝っていた。運営に関する事から珈琲の淹れ方まで、なんでも親身になって教えてくれた大恩人である。いつからか、真面目に働く姿を見て好印象を持ち、それが段々と恋慕に変わったのだと、恋破れた彼がのちに話してくれた。
珈琲とシュークリームが提供される。小路が声を掛けてきた。
「久しぶりだねえ、最近かち合わないから」
「本当に。この間の臨時バイトの日が久々でしたもんねぇ」
そうだ。貸し切り予約のあった臨時バイトの日。マスターが電話をかけて呼び出してくれた内の一人が彼だ。昔はほぼ毎日のように通っていた常連客だったのだが、最近は仕事が忙しいらしく、たまに来ても中々顔を合わせない事が多かった。彼がへらりと笑う。
「いやぁ、久々に見た制服はやっぱり……クるね」
「ふふふ……またバイト入る時があったら連絡しますよぉ」
彼の全身から発せられる愛情が、周囲の温度に融けていくようだった。恋に身をやつした事がない柳楽がたじろぐほど、炎のように燃え盛っているのが分かる。この気持ちを抱えてなお、妻子を持って「生活をやる」ことを優先した彼の精神力たるや、本当にすごいものだと思った。
「すごいですねぇ……小路さんは」
そういうと微かに笑う。
「決めたから、ね」
彼も生粋のタチで、バー「暗中航路」で夜な夜な男を引っ掛けている人間だった過去がある。そして店員である柳楽に心の底から惚れていた。
「誰か一人にするなら、是非俺を選んでほしい」
と何度も囁かれたものだ。お互いタチ専であったので、望み薄と分かっていても繰り返される愛の言葉。応えることはなかったが、それでも嬉しく感じてはいた。
そんなある日、問題が起きてしまう。彼の父が病気で働けなくなってしまったのだ。突然店を継ぐことになってしまった彼は、バーでさめざめと泣いていた。……店を継ぐにあたり、普通に結婚するよう両親から嘆願されてしまったから。まだ、その時はそういう時代だった──。男遊びをやめなくちゃならない。柳楽は何度もおしぼりを交換し、水を飲ませ、背をさすった。それくらいしか出来ない自分が腹立たしかった。
ひとしきり泣いたあと、ホットミルクを差し出した柳楽に彼は掠れた声で言った。
「最後に、一晩だけ……そしたらもう、全部諦められるから」
絞り出すような、悲痛な声。彼の魂が血を流していた。人生を一つ終わらせて、新しく産声をあげる事を強いられている。息を深く吸って……決断した。
「いいですよ、ぼくで、よければ」
また、彼の目から涙が溢れた。
ホテルに移動し、部屋に入る。すると彼はよれよれと歩き、トイレへ向かった。中を、洗っている……? 柳楽は戻ってきた彼に問うた。
「抱くつもりじゃ、なかったんですか」
彼は一瞬顔を固くし、けれどへらりと笑った。
「ううん。君にだけは、抱かれたい。……君だってタチ専でしょ」
もうそれ以上言葉を重ねるのは野暮だった。ベッドに腰を下ろした彼を抱きしめ、そっとくちづけをした。優しく、優しく抱いて、彼が眠るまで、そっと抱きしめていた。
「夢のような、夜だったなぁ……」
小路さんが遠く、懐かしむような目つきでぼくを見る。薄い灰色がかった目は、あの時のまま。中で熱い火花が散るようだった。
「光栄だよぉ……でもまさかここまで友情が続くなんて、当時は思ってませんでした」
微笑んでそう答える。小路さんもそうそう、と笑った。
「素晴らしい事だよねえ」
本当に。小路さんがまた口を開く。
「俺は、君に恋してるからこそ、元気でいられるみたいだ……。だからこれからも元気でいて、仲良くしてほしいよ」
「こちらこそ、ですよぉ」
いつまでも、そう、いつまでも。細い小道を歩くように。
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