第六幕 BAR暗中航路にて

 その日の「柳楽我楽多店」は混みもせず、暇すぎることもない良い日だった。次の日店で出す用にケーキの仕込みをしながら、これが終わったらのんびりシーシャでもふかすか、と思っていた矢先。柳楽のスマホから珍しい音が鳴った。一人立ちする前修行させてもらっていたバー、もとい、いつもの狩場「暗中航路」のマスターからであった。



「もしもしマスター? 珍しいね」

 ケーキをオーブンに入れながら、ぼくは突然の電話をとる。

「すまないね、営業中に」

 マスターのバリトンが申し訳なさそうに響いた。

 曰く、明後日開店から団体客の貸切予約が入ってしまったのだが、その日は唯一のバイトであるシュウ君が法事で来られないと言うのだ。

「団体って……何名様?」

 そこは大事だ、すぐに尋ねる。

「それが……二十人」

 マスターも困惑しきった声を出す。あの店のキャパシティギリギリである。そりゃあこの道二十五年のマスターも焦るというものだ。

 頭をフル回転させる。バーの開店は十七時、料理の仕込みとオードブルの手配、それから。

「分かりました、何時に入ります?」

 マスターは安堵のため息を漏らした。

「ありがとう、話が早くて助かる。十四時に店に入れる?」

 こちらの店は臨時休業にしてしまおう。なんたって、恩人の一大事だ。

「了解です、当日までにやる事あれば連絡くださいねぇ」

 と言って、電話を切った。

 さぁ、明後日の休業予告を作ろう。


 当日。久々のバー制服に袖を通し、ぼくは恩師の店のカウンターに立った。ずっと通っているけど、この視点は久々だな……などと考えながら。マスターも合流し「懐かしいね」と目尻を下げる。

 さて、これからが闘いだ。馴染みの惣菜屋から受け取ったオードブルを冷蔵庫に保管し、次々と料理を作っていく。お通しのナッツやお菓子の盛り合わせ。キャベツとアンチョビのオーブン焼き。ラム肉のソテー、香草ソース。季節の野菜とサーモンのブルスケッタ。生ハムとカマンベールのバゲットサンドに、クリームチーズと自家製ジャムを合わせたクラッカーのディップ。デザートのフルーツ盛り合わせと、フォンダンショコラ。

 二台あるオーブンはフル回転だ。ぼくもマスターも手を止める暇なく、黙々と作業を進める。合間にドリンク用の丸氷を作り、包丁を研ぎ直す。

 約束の十七時より三十分前。やっと全ての用意が終わった。あとはお客様を待つのみだ。

「五年ぶりなのに、相変わらず手際がいいな」

 マスターが汗を拭きつつ言った。こちらも顔を拭きながら答える。

「いやぁ、覚えてるもんですねぇ」

 貸切時間は四時間。その間のホールまで担当して、今日の仕事は終わりだ。


 開店十五分前に、幹事役のお客様が到着。その顔に見覚えがあった。

「あれ? 徳田くん……?」

 そこには溌剌とした笑顔を見せる長身の姿。徳田竜司、仲良しのセフレ。

「あれっ、柳楽さん? どうしたんですかその格好!」

 そりゃそうだ、自分がここで働いていた時とは客層が違う。

「ぼく昔、この店で修行してたんだよ。今日はシュウ君の代わり」

 納得、と言う顔。そして、頭のてっぺんから爪先まで這い回る視線。髪の毛は一つにくくり、白のワイシャツに黒い蝶ネクタイ、黒いベスト、細身のスラックスにギャルソンエプロンのいでたち——彼はこの姿がお気に召したようだった。

 今日の流れはマスターと相談が済んでいるようだ。あとはひたすら出来上がった料理や飲み物を運ぶだけの仕事である。


 十七時を知らせる時計の鐘に合わせて開店。待ちに待ったらしい、小綺麗に着飾った男女達が次々流れ込んでくる。その中にもう一人、見知った顔があった。

「えっ……あれっ……」

 と目を白黒させているのは佐々木陽。以前このバーで逢って以来、たまに夜を共にしている男。目くばせと共に口元に人差し指を添えて、「しーっ」と笑んで見せれば、彼はたちまち顔を赤くして目を逸らした。

「今日は何のパーティーなんだい」

 とこっそり聞けば、営業部長の結婚祝いなのだとか。なるほど、徳田くんとは仕事仲間だったのか……世間は狭いもんだねぇ。


 パーティーが始まる。皆思い思いに席に着き、美味しそうに料理を平らげてくれる。気のいい人が多いな、さぞかしホワイト企業なんだろう……。マスターと目くばせしつつ、料理やドリンクを運んでいる間も、密やかな視線が方々から刺さる。見知ったものと、新たな獲物の予感だ。この瞬間、ぼくの一挙一動、指先の動きから視線の一つまで、全部が商品だ。存分に堪能してくれればいいさ。


 デザートと、締めのドリンクまで運び終わると、徳田くんがカウンターにやってきた。

「お二人も、良ければ一杯。これは俺が個人的に払うので」

 とのこと。どこまでもデキる男だなぁ。ありがたくジントニックをいただきながら、またタオルで汗を拭った。その仕草にすら、いくつかの視線。これはいい、今日だけで何人か開拓できそうじゃないか。ぼく個人に来るよりか、ここのバーに客がついたら嬉しいけど。そうしたら遅かれ早かれ、また会えるからねぇ。


 全ての工程が終わり、お客様を見送る。店の入り口に用意していた名刺とフライヤーは空になっていた。自分の店のも置かせてもらっていたが、こちらも十分はけている。これからの集客が楽しみだ。そしてもちろん、夜のお誘いの方も。


 マスターが声をかけてくる。

「祀くんお疲れ。もう上がっていいよ」

 でもマスターは、これから深夜二時まで普段の営業に移るのだ。客もちらほら来ている。

「ぼく、ラストまで居ますよ。その分はバイト代いらないんで」

 そう提案する。息をつく間もない仕込み三時間と、貸し切りの四時間……マスターだって身体に堪えているはずだからだ。

 マスターはうーんと唸り、観念したように言った。

「ありがとう、助かるよ。でもちゃんとバイト代出すからね。誰かと抜けたくなったら言ってくれたらいいから」

 理解のある職場で助かる、とぼくは笑った。


 そこからはいつもの店の風景だった。いつもは同じ客同士の相手に、店員として接していく。驚く人、気にしない人、反応はまちまちだった。

 醒ヶ井くんも偶然訪れたが、「一大イベントじゃないすか!」と大層喜んでくれた。彼はクールな見た目に反してとても素直で好青年だ。絶対またやってほしい、夜も予約する、とおねだりした後、惜しみつつ今日の約束の相手と去っていった。


「昔の馴染みに連絡していいですよ、『今日は祀がいるよ』ってねぇ」

 戯れにそう言えば、マスターは笑いながら受話器を手に取る。お陰で一時間後には懐かしい顔や、彼らが連れてきた新顔で店は閉店時間まで大繁盛となった。楽しくていいな、週一くらいでバイトにくるのもいいかもしれない。



 今度こそ終わりの時間。柳楽はマスターからバイト代を受け取り、帰り支度をする。スマホを見ると、十分くらい前にメッセージが届いていた。徳田からは今日のお礼、もう一つは佐々木からだった。

「お疲れ様です。仕事上がってお疲れでなければ、今日どうですか。用事とかあれば全然断って大丈夫なので! 制服、とってもお似合いでした」

 彼のアワアワした顔が目に浮かぶようで、柳楽の顔が思わずほころぶ。メッセージに返信すると、そのまま夜闇に向かって歩き出した。

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