第五幕 遭遇――早瀬侑紀
初めて訪れた店で、私——早瀬侑紀は緊張のあまり吐きそうだった。隣には元先輩である笑美さんがついているが、今日の予定を考えるとそれすら慰めにはならない。だって今日は彼女のセッティングで一晩遊ぶのだ、知らない男と……。
私がこんなにも緊張するのには訳がある。この身体は、生まれつきの女性ではなく、私はMTFと呼ばれる類の生き物だった。辛い手術を何とか乗り越え、「女」になったのが半年前。それなのにどこに行っても「女」ではなく「元男」と扱われる現実。彼氏もそうそうできない。追い込まれ助けを求めた先が、元職場の先輩である笑美さんだった。
「全部無駄だったかもしれないんです」「誰にも需要がない」
そう言ってボロボロ泣く私を、笑美さんはその生まれつき柔らかな体で抱きしめてくれた。私より柔らかい身体、私より小さい、『可愛らしい』身長。その全部に腹が立つ。こんなに優しくしてもらってるのに——。そんな自分が嫌で余計に涙が溢れた。
「侑紀は、知らない人と一晩ヤるの、抵抗ある?」
泣き疲れて座り込む私に、笑美さんが放ったのはそんな言葉だった。驚いて固まる私。笑美さんは慌てて、
「違うの、当たって砕けろとか、発散すればいいじゃんとか思ってるわけではないのよ?」
と言い添える。じゃあどういう事なんだ……。
順序だって説明が始まった。自信を無くしているのだから、それを取り戻さなくちゃならない。それは分かる。けど、すぐに彼氏が見つかるとか、そんな奇跡は起きない。しかも対人関係の悩みだから、一人でどうにかするのも難しい。それも確かにそうだ。
「だから、信頼のおける人、できれば異性と一回触れ合ってみたらどうかなって。もちろん、嫌なら触れ合うまではしなくていいし、話を聞いてもらうだけでもいいの」
なるほど。
「でもそんな都合のいいマッチングあります? まずこの体で勃つ相手じゃないと無理でしょ」
そうだ。まずこの特殊な身体に理解がある必要がある。でもそれって、それこそなんでもいい奴でもなきゃないでしょ……。笑美さんは笑った。
「いるんだなぁーひとり。優しくて、けど奔放なのがさ」
その結果が今日だ。相手には、笑美さんから事情を全部話してもらって合意を取っているし、相手の顔写真ももらった。髪の長い優しそうなおじさんという感じだった。この人が……? マジで普通の人なんだけど。本当にイケるんだろうか、疑わずにいるには、あまりに悲しいことを経験し過ぎた。
「こんばんは、笑美ちゃんと…侑紀さん?」
後ろから穏やかな声がかかる。高めなのになんだか深みがある不思議な声だ。振り向くと、写真で見たおじさんが立っていた。想像していたより……デカい。百八十センチくらいあるかな? 私より十センチは大きいぞ。
顔は普通、身体も普通くらいで特にタイプではない。けど紫の瞳が印象的な人だ。薄い紫のカッターシャツに黒のベストとスラックス、濃い青紫のネクタイを合わせている。靴は先までピカピカに磨かれている。お金持ちそうではないが、清潔感があって好印象だ。おまけに一つ一つの動作に余裕がある。手慣れてる感がすごいな……。
笑美さんが椅子を勧めると、しなやかに動いて席に着いた。
「初めまして、柳楽祀です」
慌てて挨拶を返す。ウェイターが寄ってきた。
「二人はまだドリンク大丈夫?」
と声をかけられる。笑美さんは、
「私これで席外すから」
と立ち上がった。えっ……二人きりになるのか!? ガバっと振り仰ぐ私を見つめつつ笑美さんが言い放つ。
「同じのでいいでしょ? この子、カシスウーロンで」
「じゃあぼくはジントニック」
勝手に話が進んでゆく。頭が真っ白になる……。笑美さんはカウンター席に消えていった。
「煙草吸うんだね」
気さくに話しかけられる。まずい、緊張のあまり山盛りにした灰皿──はそこにはなかった。オーダーついでに交換してくれたらしい。
「ぼくも吸うから助かっちゃうな」
そう言うと穏やかに笑って、ゆったりと煙草に火をつけた。こちらも慌てて火をつける。美味い。ここだけが安息……。
「わ、私もすごく吸うから……でも男の人って吸う女あんまりですよね」
ついネガティブな事を言ってしまう。
「そういうもん?ぼくは気にした事ないなぁ。一緒に楽しめるものが多い方がいいじゃない」
すごい。まるで全肯定Botだ……。
「そう……ですね」
と尻すぼみな返答をする。
ドリンクがきた。彼は煙草の煙が店員に当たらないよう、手を逸らしている。気遣いの鬼なのか?
「ありがとうねシュウ君」
と礼まで言っている。
「いえいえ、ごゆっくりなさってください」
懐っこい笑顔の店員がはけていった。ウチの客みんなこんな感じだったらいいのにな……。
勇気を振り絞って、会話を始める。
「柳楽さんは……元男って経験あるんですか?」
世間話をする余裕がもてない。
「ないよ」
返ってきた返答は実にシンプルだった。
「ないけど、今は女の子なんでしょ? そんなに変わるものかい」
この人、めちゃくちゃ楽観的だな……。
「作ったものだから、元々の女性みたいにはいかないんです。痙攣するわけじゃないし、濡れる訳でもない」
しまった。結構シモだぞ。けれど相手は全く動じていない。
「ローションは気をつけて足さないといけないけど、それは誰相手でもそうだしなぁ。どちらかと言えば……」
はっきり目を合わせられた。
「君がどうしたら快感を得られるのかを知りたい」
なんて直球なんだ。でも下心というよりは、真剣そのものの目つき。そんな真剣に考えてくれるの? ……初めて会って、今晩OK出すかも分からない、中途半端な身体の私について……?
泣きそう、と思う頃にはもう涙が溢れていた。彼は優しく手をとってさすり、ハンカチを貸してくれる。
ウェイターと言葉を交わしているのが聞こえたがそれどころではなかった。嬉しくて、もうそれだけで気持ちが良い。
泣き止むと同時に、タオルに包まれた保冷剤が手渡される。「ほら、目が腫れちゃうからね」と。
一連の流れだけで、もう心は決まっていた。この人に委ねてみたい。勧められるまま飲み物に口をつけ、一息ついて言った。
「今晩、よろしくお願いします」
柳楽さんの提案で、駅に近いホテルまで来た。途中で気が乗らなくなったらすぐ帰れるようにしてくれたのだろう。本当に優しい人だ。笑美さんからはメッセージが入っていて「適当に帰るから、朝までだったら特に連絡しなくていいからね!」との事だった。申し訳ない、けどとてもありがたい事だ……。
部屋に入っても緊張でカチカチな私に、まずはお風呂に入ろうと提案してくれた。裸の付き合い、と言う奴だ。言われるまま服を脱ごうとするが、緊張で身体が動かない。相手の反応を見るのが怖い。モダモダしてたらあからさまに不機嫌になったりしないだろうか……。
頭上に影が落ちて、顔を上げた。見上げた彼の顔は、それまでと同じ優しさを湛えているだけだった。
「やっぱり怖い?」
声も優しい。
「大丈夫、なんですけど」
また言葉が濁る。
「身体が動かなくて……」
「とりあえず、こっち来て座ろうか」
肩に手を置いて、ゆっくり誘導された。ベッドに並んで座る。
「無理はしなくていい。後日改めて会ってみるのでもいいしねぇ」
なんでそんなに。
「なんでそんなに、優しくできるんですか……」
彼は低く笑った。そして目を細め、男の顔をして見せる。
「そりゃあ君が、魅力的だからさ」
心臓が跳ねた。
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