第三幕 遭遇――佐々木陽
秋晴れも夕方になれば空々しく冷える。冷たくなった風に身を震わせながら、青年はぐったりと項垂れていた。憂鬱の原因は、妻からの突然の離婚届のプレゼントだ。田舎の風習でお見合い結婚ではあれど、何不自由なく生活させるために、単身都会に出て働いていたはずなのに。他に男が出来た、それだけの理由で、一人離婚届を提出する羽目になった。
佐々木陽は真面目な男だった。普段は飲みに行くこともなく、家に直帰してコンビニ弁当を食べる日々。今日位はいいや、適当に静かそうな店を選んで、飲み明かしてしまいたい。
繁華街を歩く。劇団員並みに声を張り上げるキャッチに小声で謝りながら、喧騒を抜けて裏路地へ入った。思わず深呼吸をする。どこも混んでいそうだ……もう少し裏手に入ったら、ちょうどよく寂れた店が──あった。
店の外観は古めかしく、灯りも一つしかない。重厚なドアにかかった「OPEN」の文字だけが見える。青年はドアの前で立ち止まったまま、少し尻込みする様子を見せた。
「──入らないのかい?」
上等なバーだったらどうしようと尻込みしていた僕の背に、後ろから突然の問いかけ。思わず小さく飛び上がると、相手は低く笑った。
背の高い、長髪の男。前髪はさらりと横に流し、緩く曲線を描く髪を上半分だけ結っている。常連か。
「はっ……初めて来て……」
言いながら顔が熱くなるのを感じる。僕は赤面症だからだ。絶対変な風に思われた……今日はもう帰ろう……。
「そうなのか、ようこそ! よかったら一緒に飲もうよぉ」
予想だにしていなかった相手の反応に、僕はひどくたじろいだ。しかし、「ねっ」と肩を押されては、もうビクビクしながら敷居を跨ぐ他なくなってしまったのだった。
店は落ち着いた雰囲気で、照明も絞られていた。数人いる客も、各々静かに飲んでいる。「いらっしゃいませ」とマスターらしきやけに低くて綺麗な声が響く。ウェイターも寄ってきた。
「今日はおふたりですか?」
今日は、と言うのは間違いなく斜め後ろの長髪への言葉だろう。彼もそれを分かっているようで、淀みなく言葉を返す。
「ドア前で会ってね。カウンター席あればそこで」
逃げられない。
「かしこまりました、どうぞ」
と感じの良い返事をしてウェイターが下がっていく。同時に「行こうか」と声がかかり、促されるまま席に着いた。
「何か飲む?」
優しく問いかけられる。
「ぼくはモヒートにしようかなぁ」
何というか、けっこうマイペースな人なんだなぁ。強引な訳でもないけど、なんだか有無を言わせない雰囲気がある。こんな人が上司だったらいいのに……。顔を覗き込まれて心臓が跳ねた。回答をしていない……!
「ぼっ僕も、同じので!」
声が上擦るし震えている。相手はにっこりと微笑んでくれるのみだ。そしてウェイターを呼んで注文を伝えてくれた。店員に対してもとても物腰が柔らかい。元々親しいようでもあるけれど、この人は誰に対しても優しいのだろうと推測できる。
「何かあったのかい」
相手が尋ねる。
「この世の終わりみたいな顔をしてるよ」
告げられてハッキリと慌ててしまう。図星だったからだ。
「……妻と、別れまして」
口に出してから後悔した。初対面の人に振っていいほど軽い話題ではない、さすがに。
「……まぁ、生きてりゃそんな事もあるさ」
相手は穏やかな声で、それだけを言った。否定も肯定も、茶化しもしなかった。それだけのことで心を鷲掴みにされた心地がする。馬鹿にされていない、対等に扱ってくれる、会ったばかりだし、あんなに粗相をしたのに……。
ドリンクが届けられた。彼はグラスを掲げると、優しく言った。
「君の新しい門出に」
鷲掴まれた心がほどけていく。
「ありがとうございます……っ」
最後の方は言葉にならなかった。僕は背を丸めて泣くことしか出来ず、彼は泣き終わるまでずっと、背中をさすってくれていた。
二人して、すっかり温くなったモヒートを呷る。泣き腫らした喉にミントの刺激が心地良くて、少し笑顔になった。「やっと笑ったね」と言ってにこりと微笑む彼。淡く光る紫が優しく揺れていて、僕は今度こそ、心を持って行かれてしまった。
聞けば、彼は柳楽さんと言い、この店の常連らしい。なんて素晴らしい事を聞いたんだろう。いそいそとスマートフォンに現在地を知らせ、店をブックマークした。これでまた来れる、会いに来れる……。
自分でも馬鹿みたいだと思う。僕は男だし、相手も男だ。僕の性対象は女性だけだった。のに、ここに来て価値観が崩れ去ってしまった。あわよくば、この人に抱かれてみたい。人生一度きりでも構わない。
その時、悶々としている僕の後ろから、明るい声がかかった。
「おじさん、今日は予約済み?」
若い男の子の声だ。柳楽さんが手を振って応える。
「今日はまだだよ。ただ、彼と一緒に飲み終えてからになるかなぁ、あとでお互い空いたらね」
しまった。誰かと約束が……? 邪魔をしてしまったか……?
「す、すみません、お約束の邪魔を」
言いかけると、手を振って制止された。
「違うんだよ、約束はしてないの」
よ、よかった。ホッと息を吐く。
「ぼくがここに来るのは、大体夜の相手を探す時だからね。だから見知った子達は、声かけてきてくれるんだよ」
へえー、とのんびり聞いていたが、それってつまりは……?
「柳楽さんは、その……男も抱けるんですか?」
恐る恐る尋ねると、柳楽さんはゆったりと笑った。それはそれは美しく。
「もちろん!」
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