12

 雨の日は、ロジェは執務室に篭もって仕事をする日になる。

 それを邪魔するわけにはいかないので、マリは顔なじみの護衛と、この二年ですっかり仲良くなったランドリーメイドの三人で裏口でおしゃべりをする。

 思い思いの飲み物やおやつを持ち寄って、彼らの休憩時間に混ざるのだ。


「──やっぱりロジェの邪魔になるよね、わたし」

「えぇ…またそんな答えにくいことを」


 ランドリーメイドのセレネはマリの持ってきたクッキーを頬張ってあきれた顔をした。


「少なくとも、若さまがマリを嫌っているようには見えないですよ」


 顔なじみの護衛のマルクスは自分で持ってきた紅茶を飲む。


「だいたいそんなこと言ってたら、刺されますよ。マリさま」

「刺されるの!?」


 セレネは悟りを開いたような顔でマルクスが持ってきたチョコレートをつまむ。


「若様は人気があるんですよ。社交界に顔を出されるようになったら真っ先に目をつけられそうなぐらいに。そんなとっておきの優良株捕まえといて、わたし愛されてるのかしらって嫌味な女じゃないですか」


 誰もがうらやむ婚約者がいながら、私は幸せなのかしらと悩む女は確かに鬱陶しい。

 マリはセレネが持ってきたキッシュを口いっぱいに頬張った。今日の昼食もフェルナン夫妻と一緒だったのであまり食べた気がしなかったのだ。


「ここを追い出されたらセレネと一緒にお菓子屋さんでもやりたい」

「だめですよ。あたし、いい男捕まえて結婚退職するって決めてるんですから」


 この世界の女の子はたくましい。うらやましい。


「じゃあ、やっぱりブドウ畑の管理人に弟子入りしようか」

「もう弟子入りしてるようなものじゃないですか」


 マリの付き合いですっかりワインに詳しくなったと下戸のマルクスは苦笑する。


「ワインが飲めるようになってからじゃないとワイナリーに入れてくれないっていうんだもん」

「マリさま、まだ飲めないんですか?」


 この世界では十七歳が成人なので、同い年で十九歳のセレネは夕食時には大人に混じってワインをたしなむという。


「わたしは二十歳まで飲まないって決めてるの」


 日本へ帰れる見込みは限りなく無いが、せめてそのあたりは守っていたいのだ。


「じゃあ、マリさまがお子さまなのは仕方ないですね」

「そうだな」

「なんなの、ふたりして!」


 他愛のないおしゃべりをしているうちに、持ち寄ったおかしはすっかり無くなっていた。



 雨の日のおしゃべりが終わると、二人はそれぞれ仕事へ戻っていくのでマリはひとりになる。こういう日は特に暇だから、屋敷のなかにある図書室で過ごすことも多くなった。勉強は嫌いだが、覚えなければならないことはたくさんある。


「マリ」


 バスケットを持ったマリを呼び止めたのはフェルナンだった。今日の彼はロジェと仕事のはずだ。

「ちょっといいかな」と呼ばれれば断る理由は思いつかない。誘われるままサンルームに入ると、大きな窓からは静かな雨音が響いていた。


「やっぱり、あの日聞いてた?」


 窓に向かってソファに腰掛けると、同じようにしてマリを見ないで腰掛けたフェルナンはそう切り出した。彼の言う、あの日というのは夫妻でやってきた日のことだろう。

 嘘は苦手だ。でもどういう返事をしても気の利いた返事にはなりそうになかった。


「……立ち聞きしてすみませんでした」


「やっぱり」とフェルナンは溜息をついた。


「悪かったね。あんな話を聞かせて」


 あの日、フェルナンの答えは聞かなかった。けれどヴィヴィアンヌの考えがふつうの答えならば、


「……フェルナンさんも、本当は反対だったんじゃないですか?」


 ヴィヴィアンヌの言うことはいちいちもっともだった。貴族として、親族として、ロジェを心配するひとりとして、ああいう風に考えるのは自然なことだと思えた。

 フェルナンはじっとマリを見つめ、溜息を一つ落とすと窓の外へと視線をやった。


「否定はしない。……今も納得していない親族がいるしね」


 でも、とフェルナンは窓の外の雨を見たまま「これだけは信じてほしい」と付け足した。


「君を婚約者にしたいと言い出したのは、ロジェなんだ」


 五歳で両親を亡くし、幼くして当主に押し上げられた少年がただひとつ言ったワガママ。


「私はそれを尊重したいと思ったし、君を迎え入れたのはロジェのためだと言ってもいい」


 マリは、黄金の畑でのことを今でも鮮明に覚えている。

 あのとき、十歳の少年にマリは確かに救われた。


「ロジェの気持ちは私には分からない。同情でもあっただろうし、使命感だったかもしれない」


 今のロジェがどう考えているのかはマリにも分からない。けれど、あのときのロジェをマリは信じたのだ。


「ロジェがどういう答えを出すとしても、マリだけはロジェをこれからも信じてあげてくれないかな」


 いつかこの生活が終わる日も来るだろう。マリは日常が永遠ではないことを身を持って知っている。それでも、


「もちろんです」


 あの小さな侯爵さまを信じることに、何のためらいもなかった。



             ■■■



 フェルナン夫妻が王都へ帰る日は、ロジェと一緒に見送ることになった。

 ヴィヴィアンヌとはあの日以来あまり話すことがなかったけれど、貴族の女性らしく如才なく挨拶してくれた。

 だから、マリも自分らしく挨拶するだけだ。


「今度はワインの新酒が飲める時期にいらしてください」

「え?」

「わたし、ずっとブドウ畑を手伝っているんです。ワイナリーの新酒は美味しいそうですから是非。その時期だけのブドウのお菓子も作られるんですよ」


 ヴィヴィアンヌは少し驚いた顔をしたが、社交辞令か分からない顔でにっこり微笑んだ。


「ええ、是非。楽しみにしておりますわ」


 フェルナン夫妻を見送って、大きく伸びをしていると、ロジェは困ったように笑った。


「叔母上があんな顔をするなんて、初めてです」

「ヴィヴィアンヌさまが?」

「淑女はめったなことでは表情を変えないそうなので、微笑んだ顔以外は拝見したことがなかったのです」


 そういうことなら驚いた顔は相当レアだったのだろう。


「美人はどんな顔してもきれいだよね」

「では、マリは毎日うつくしいですね」


 それはマリの表情がころころ変わって面白いということか。


「ロジェ!」


 マリが頬をふくらませると、ロジェの楽しげな笑い声が玄関ホールで弾んだ。



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