009 人知れぬ魔獣という存在
クロスたちは、目指していた山の頂上に到達した。標高は八百メートル位だろうか。樹海の中よりも低木の多い植生になっている。特に笹が多い。
緑とも茶色とも言い難い笹原の中に立って、クロスはあたりを見回した。精霊召喚を試した今朝は快晴だったが、今やすっかり曇天だ。
怪しい雲行きのしたに広がる景色を眺めて、クロスは刈り上げの高等部をかりかりと掻いた。
「困ったな、これは……」
低い位置を横切る太陽の方。南に五キロほど行ったところで緑は途切れ、灰色の線が引かれた先、青と白の混じり合う大きな湖が続いている。
いや、と都合のいい解釈を否定するために、クロスはかぶりを振った。
あれは海だ。白波が立っている。
『やっぱり、ここは……』
腕の中のヘンリエッタが意気消沈したような声でつぶやいた。
何か知っているのだろう。しかし、クロスに根ほり葉ほり情報を訊きだすつもりは、今のところなかった。なんせ、軽く絶望していますという感じの表情だ。
たしかに、あの赤竜のような凶悪な生物が生息している土地に取り残されたとなれば、生首には絶望するしかないかもしれない。動けないし。
なんならそこら辺にいる野ネズミなどの小動物にさえ苦戦するかもしれないのだ。首を切られても平気な顔をしている魔王だが、目玉を齧られるのはさすがに嫌だろう。と想像したクロスの方が鳥肌が立ってきた。
グロい。
余計な思考を追い払って、クロスは一歩を踏み出す。
「よし、とりあえず。山を下りて、野営地を確保しよう。浅めの洞窟とかあると助かるな」
百メートルほど海側の斜面を下ると、笹原が途切れ林の中に入る。片手が生首でふさがっているので、段差の少ない進みやすい道を選んで歩いていると、ヘンリエッタが話しかけてきた。
『……これからどうするつもりなの、歩いてあの海を渡れる場所はないけど』
クロスは髭の生え始めた顎のじょりじょりと撫でながら考える。
「魔族は更に北にある大陸から船を使って渡ってきた、ていう噂があったけど、当たっていたのか」
『渡ってきたというか。流された、っていうのが正解かなぁ。ほら、あれ、島流し? 菅原道真みたいな』
「? それって、どれくらい前の事なんだ……。 少なくとも、北方領土の魔族侵攻よりも前だよな、となると1世紀以上前か?」
『えー、ちょっと待って。じいやがなんか言ってたの思い出すから……お母様が何歳の時って言ってたっけ……。四桁だった気がする』
「は? 桁? 何百歳とかではなく? じゃあ、お前はいくつなんだ?」
『あ、わたしはまだ十七歳だから。 勘違いしないでよね!』
ほんとかよ、とクロスは思った。
「もしかして、人間が知らないだけで、魔族ってかなり長命な種族だったのか?」
『いや違うよ? お母様が特別で、あれ、なんて言ったっけ? あ、バンパイアの真祖的な! だから、わたしも一応五百年くらい長生きするらしいんだよね~。アハハ、ヤバくない?』
「首を切られても死なずに五世紀も生きる魔王か。討伐の旅の途中でそんな情報があったら、速攻でとんずらしていたのに。なんでもっと喧伝しないんだよ。迷惑な」
『迷惑って、ヒド! でもさ、言っても普通の人間だったら信じないでしょ。だから、宣伝するだけ無駄かな~って思うんだけど?』
「……たしかに、そうだな。特に頭にカビの生えた教会のジジイ共には絶対通じない話だ」
『わ、めっちゃ人の悪口言うじゃん、ひくわ〜、やめた方が良いよ?』
「事実だ事実。人聞きの悪いこと言うんじゃあない」
ぺしっと軽く生首のおでこを叩くと、それはへへへと笑った。おっさんに軽口を叩くくらいの余裕が出てきたようだ。
そんな風に、だんだんと調子を取り戻してきたヘンリエッタと、何気ない会話をしていた時、クロスの背筋にゾクり、と寒気が駆け抜けた。
『え、何何?』
それは山道の下り坂も、緩くなってきた頃合だった。
段々とクロスの道を進む歩みが速くなっていく。ついには、進んでいた山道を外れ、薮の中を跳ねるように走り出した。
人外的な身のこなしで、巨大な倒木を滑るように乗り越え、低木の茂みを飛び越える。山登り中に有効化していたアクロバットのアクティブスキルの効果だ。
『ちょっと! 黙ってないで何が起こってるのか説明してよ!』
「何か危ないものが着けてきているって、精霊がいっている気がする! 今はそれしかわからない!」
クロスに索敵スキルはない。ただ、あの光の精霊?がクロスに同化してから、危険は特に肌感覚に訴えてくるようになったのを感じるようになっていた。
クロスは通りすがりの太めの木の幹をけって、前世の漫画に登場した忍者よろしく、太い枝を足場にする。身体能力が向上したおかげで、木々の間を縫うように移動しているにも関わらず、その速度は四つ足の獣並みになっていた。速度換算でおよそ時速40キロメートルには到達している。
懐の生首から『ぎゃー!』と甲高い悲鳴が上がるのも無理はない。抱えられて高所を上下に落下したり上昇したりする体験は、確かにジェットコースターじみている。
あまりに大声で叫ぶものだから、クロスはヘンリエッタの口を、持ち替えた手で塞いだ。腕に巻き込んでラグビーボールを抱えるような感じだ。口を覆う手のひらが生ぬるい。
「一体っ、追いかけてっ、きているのはっ、何なんだっ?」
『もがもが!』
それから数十秒で、クロスの視界が開けた。林を抜けていた。
クロスは地面に着地して、勢いを殺さないままさらに大きく一歩を踏み出す。鉄板入りの靴底が湿って柔らかい地面を、蹴り飛ばし削っていく。くっきりと踏み跡を残しながら疾走し、地面が硬い感触を返してきた瞬間、両足を畳んで、力を溜める。そして、重心が爪先に乗ったとき脚力をすべて叩きつけた。
昨日、加護が覚醒したときに、垂直跳びで八十メートルほどに到達してしまったのを憶えているだろうか。
そんなおっさんが自動車並みの加速を付けた上で、斜め四十五度の跳躍を行う。スキル『アクロバット』の作用と、精霊のささやきで無意識に完璧な踏切を決めたクロスは、発射された。
理想的な弾道飛行は、川を過ぎ林を越え海岸までの数百メートルを飛び越えた。
そう、着地地点に地面が無かった。
「あ」
『んみゃ?』
クロスが焦りを口に出す前に派手な水しぶきが上がった。
……
…………
「うわー!?」
……………
『チカン』
「……誤解です」
海に落ちて、クロスの腕の中からこぼれ落ちたヘンリエッタは、海底に沈んでいった。クロスに口を塞がれたまま、いきなり水中にたたき込まれたせいで、口内に空気を貯めることもできなかったのだ。
クロスが昆布のような海藻群の狭間に見つけたとき時、美人な生首がタコのような軟体生物に絡まれて、触手に口内を侵されながら白目を剥いていた。
首だけになっても生きているような女だ。「今更、水中に放置したところで騒ぐほどのことではないのでは?」と考えたが、中身は同郷の少女だと思い出して救い出した。
『ああ! 最悪! 海水でべとべとだし。喉がカラカラだし……』
「魔法で、水、出しましょうか」
二人は今、赤くなり始めた日光に照らされた、白砂の海岸にいる。
ヘンリエッタは目の細かい砂で頭を支える枕にクロスの上衣を被せた上に鎮座していた。
その前にクロスは正座させられている。
無言で口を開けたヘンリエッタの口内に、そろそろと水を流し含ませる。
『ん、ん、ん、ぷはっ……もういい、もういいって!』
ジトっと半目で睨めつけてくるヘンリエッタに、クロスは平身低頭する。
この女が何にこんなに怒っているのかというと、実はジェットコースターばりの速度で森を駆けたり、海に落ちて沈没したりした事はあまり影響していない。
気絶した生首を弄んでいたタコを追い払って、この海岸に引き上げた時、一応人工呼吸で蘇生を試みようとした間際に、ひとりでに目を覚ましてしまったのだ。
ひげ面の目つきの悪いおっさんが顔が迫っているのに対して、ヘンリエッタは悲鳴をあげた。
クロスも冷静になれば、胴も肺もない謎の生物に人工呼吸が有効なのだろうか、いやきっと無駄だった、つまり……と、無意識にワンチャンを狙っていたかもしれない、下心の可能性に気がつき下手にでざるおえない状態になっていた。
『それで?』
「ん?」
『いったい何から逃げていたのか、判ってるんじゃないの? おしえてよ』
「あ、ああ。それは」
説明しかけたその時、再びクロスの背筋を悪寒が駆け上がった。
海岸を囲う林が、にゅるりと左右にわかれて道を作り、鉄を踏みつけたような堅い足音と共にそれは現れる。
馬だ。
筋骨隆々とした四本の足。体高が優にクロスの身長を超えるその体躯は、紫がかった黒の体毛が覆っている。首筋には銀のたてがみ。そして、同じ輝きの長く垂れた尾毛をゆらしている。
頭の両側。両耳の後ろから生えた日本の曲り角をもつ、あからさまに『魔』に属する生物。
「――バイコーン」
それが、今にも突進してきそうな興奮度合いで、クロスたちを睨んでいた。
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