第005話 「縮地」
次の日。
ロジャーは早朝に起きた。
庵の木戸を音を立てないよう慎重にゆっくりと開ける。それでも、どうしても完全に消音できるわけではないので苛立つ。
逃げるなら今しか無い。そろり、そろりと細心の注意を払って庭先に出た。
「おぉ。早いな。楽しみで寝てられなかったか?」
なんと師匠が目の前に立っていた。
まだ日の出前の暗がりである。まさか師匠が庭先に出ているなど考えもしなかったロジャーは、心臓が口から飛び出すかと思う程に驚いた。
「ヒッ!師匠・・・・・・こそ、こんな早くにな、何をやってるんですか?」
内心の動揺を隠しきれず、ロジャーはうわずった声でそう返した。
「天気を見てたんだよ。雨じゃあやってられねえからな」
「えっ、今回は屋外でやるんですか?!」
驚くロジャーに、師匠は憮然とした様子で応える。
「当たり前だろ。何言ってるんだ?庵の中じゃあ走れねえだろうが」
「は、走る・・・・・・?」
それからしばらく話をすると、お互いの誤解は解けた。師匠は縮地という奥義を教えようとしていたのだ。
それは先日描き込まれた呪印の効果を発揮して、凄まじい速さで地を駆けるという技だった。だから外でなければ出来ない事だったし、天候も重要になってくる。
話の都合上、ロジャーの勘違いも露見して笑われた。
「そんな事をする訳がねえだろ。お前、変態かよ」
屋外で拘束台に縛られて股間を筆攻めされるという発想は確かに変態である。ロジャーは反論しようとしたが、何も言い返せなかった。
「まあそりゃ逃げようともするわな。安心しろ。今日のはそんなんじゃねぇ」
毒薬を塗り付ける工程は終了したようだったので、ロジャーはホッとした。
「というより、真剣にやれよ。今回は気を抜くと死ぬぜ」
毎回、気を抜いたら死ぬような事ばかりやらされているので、今更の話だ。
どういう事なのか訊ねると師匠は説明してくれた。要点をまとめると以下の通りであった。
縮地は通常の五倍の速さが出るので、何か障害物に当たると危険である。それどころか地面の起伏がある場所だと危険過ぎて使えない。こけたら大怪我する。速度が乗っているとただでは済まない。
やりたくない。ロジャーは素直にそう思った。
「そんな技より、師匠みたいに空を飛ぶのを教えて下さいよ!」
師匠は空を飛ぶ技を日常的に使っている。どうせならそっちを教わりたい。ロジャーは懇願した。空なら障害物も無いから安全ではないか。
だが師匠が言うには空を飛ぶ技はこの縮地からの派生技であり、縮地を習得しなければ出来ないのだという。
結局、日の出前では暗すぎて危険なので、明るくなるのを待って縮地の練習をする事になった。
「さて。日が昇るまでに、足の呪印に一筆入れるぞ」
「えっ?!」
ロジャーは後ずさった。
「心配するな。小指の先くらいの線を一本入れるだけだ」
師匠曰く、既にロジャーの脚にはくるぶしから膝関節の間に呪印が施されている。だがそれらは今のままでは効果を発揮しない。
これは呪印の鍵という手法で、わざと一筆足りないように呪印を描いてある。
まだ未熟な者が技を暴発させる事を防ぐ為の処置で、いざ期は熟せりとなった時に一筆入れてその呪印を完成させるのだ。
「よし、脚の呪印に魔力を流せ。そのままじゃ見えんからな」
少しだとはいえ結局毒薬を塗られる事には落胆し、ロジャーは渋々それに従う。
ほどなくして鍵を解除する一筆が施され、日が昇る頃には全ての準備が整った。一筆だけだったので思ったよりも痛みが少なく、ロジャーは安堵した。
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時は経てど未だ早朝、天候は晴れ。実践授業の開始である。
「今度はさっきよりも強く魔力を込めろ。走る際に注意する点は・・・・・・」
師匠が縮地の技におけるコツを説明してくれた。
ロジャーは恐る恐る走り始める。だが、意外にもやってみるとこれが簡単だった。
「わあ・・・・・・!」
馬よりも速く大地を駆け巡る経験などロジャーは生まれて初めてであり、想像も出来なかったぐらいに気分が高揚した。
足元の地面がとんでもない速度で流れていく。風が全身を駆け抜けて、まるで飛んでいるようだ。
「最高だ・・・・・・!なんて気持ちが良いんだろう!」
夏の朝日が点在する木々を照らし、彼方にそびえる山々の緑が鮮明に輝く。
近い。徒歩では到底すぐには行けぬ所にも、少し走れば着けるだろう。なんと楽しいのか。ロジャーは束の間、我を忘れた。
遠くで師匠が何か叫んでいる気がする。しかし風の音で何だか聞き取れない。
これはいけない。方向転換して戻る事にした。
速度が乗っていたので、停止するより曲がった方が良いと判断したが、曲がる事すら滑るように足がとられて容易ではない。
それでも何とか転倒せずに無事曲がり切って、方向転換に成功した。
「バカが!いきなりやり過ぎだ!」
師匠の元に戻ると怒られてしまった。
危険だと言ったろ、とお説教をもらう。ついでにゲンコツももらう。
確かに止まろうとした時は危険であった。師匠の前で止まり切れずに転倒しそのままゴロゴロ転がった。ズザーッと砂煙を上げて地面を滑った後、やっと停止したのだ。
今は偶然上手くいったが、例えば地面に木の根ひとつでも張り出していれば転んで大怪我をしたかもしれない。あれだけ速度が乗った状態では、命を失いかねなかった。
珍しく師匠は本気で怒っていた。しかし、珍しく少しだけ成功を褒めてくれた。
「お前は足の呪印との相性が良いのかも知れんな」
それから、今後は縮地を使う時に硬気功をかけるようにしろ、と指示された。
硬気功は仙術流派初歩の基本技で、マナを流し込んで身体を頑丈にするものだ。剣で斬られたりすれば傷を負うが、打撃に対しては相当な防御となる技である。
最高速度で木にぶち当たったりしたら身体中の骨が折れるから、絶対にかけるようにと念を押された。
「もちろん硬気功より障壁の技を使うべきだ。だがちょっと効率化が必要でな」
障壁は堅牢な魔法の盾を作り出して身を守る防御の技だ。鉄のような強度があって、大抵の攻撃を防ぐ事が出来る。
ロジャーも障壁の技は修練した事があるが、縮地をしながらだと術式が散ってしまい使えなかった。
マナの制御に負荷がかかり過ぎて、あまり高度な技だと同時発動出来ないのだ。
師匠はその制御の効率化をいずれ教えるので、今は硬気功で代用するようにとロジャーに言い聞かせた。
もっとも硬気功を使っても、何か障害物に当たれば怪我をするのは間違い無い。だから絶対に避けろ、との話であった。
この日はその後も縮地の修練を続けたが、事故も起こらず良い成果を得る事が出来た。奥義とされる技を習得し、ロジャーにとって大いに自信を持てる結果となった。
「これなら明日は縮地跳空をやっても良いか・・・・・・」
師匠も満足気に呟いた。ロジャーが空を飛びたがっていたのを思い出していた。
しかし、この成功が翌日に油断を生む事になる。
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仙術流派奥義『縮地』
大地を疾走する。約十倍の速度で走れるが、急制動にはコツと秘儀による強化が必要。障害物など避けるにはある程度限界がある為、防御の技を使用するのが望ましい。要足印。
仙術流派発勁初級技『硬気功』
臍下丹田(せいかたんでん)から全身にマナを張り巡らし、通常ではありえない頑丈さを得る防御の技。術者は身体の脆い部分であっても、槍を当てがってへし折る強度を得る。
勢いよく突かれたり刀剣で斬りつけられた場合は別だが、その場合もある程度は堅固になった筋肉で刃を止める事が可能。
呪印無しでも良いが、丹田印があると効果が飛躍的に伸びる。
仙術流派防御術上級技『障壁』
眼前に浮遊する魔法の盾を作り出す。盾は半透明でマナを放出し青白く発光するが、視界を妨げるほどではない。
術者のマナにもよるが、盾は見た目と反して鉄の如き強度を持つ。
盾は展開したまま移動してもついて回る。位置をある程度変更可能。術者に対して力の反作用は起こすが、何かにぶつかると衝撃を大幅に軽減する。
例えば盾を落下時に地面に対して構えれば、高所から落下しても傷を負わない。
呪印無しでもできる技だが、その場合盾を維持できるのは数秒。手甲印と魔眼があれば発動と制御にかかるマナを大幅に効率化出来て、常時展開出来る。
秘儀により更なる効率化が可能。
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