第2話
エヴァレットの多世界解釈。
未だ謎多き量子力学において、量子の性質を説明する仮説の一つである。
量子は波と粒子という二つの性質があり、またそのふるまいは確率でしか表せない。ここにいる確率は70%という風に。七割の量子というやつは、かみなりが外れるのと同じように、結構な頻度で見つからなかったりする。それっておかしくないか、と思われるかもしれない。だが、それがありえるのがミクロな世界である。
量子は私たちによって観測された瞬間に状態が確定する。そのことを収束すると言ったりするのだが、それは違うのではないか、というのがエヴァレットの多世界解釈の主張。
その解釈が提示する世界では、可能性は収束するのではなく分岐していく。例えば――そうだ、ヨシノを例にしよう。
「またにゃのか」
「まただよ、いいから黙ってろ」
これだから量子力学者というのは……。などとヨシノがぶつくさ言っていたが無視する。別にこれは彼女に危害が加わる類のものでは決してない。あくまで思考実験の一環である。
ここにヨシノがいる。こいつに箱をかぶせると、私やあなたからはヨシノの姿は見えなくなるだろう。その時、ヨシノはどんな猫でもあるといえる。箱を開けるまではマンチカンかもしれないしスコティッシュフォールドかもしれず、三毛猫でもある。あるいはホームズかもしれない。
とにかく様々な可能性があり、観測された瞬間、泡沫のような可能性たちは一つに収束する。3色のぶち模様を見れば三毛猫だとわかるように。箱を開けるということはそういうことだ。
しかし、そうではないのではないかと多世界解釈はいう。一つに収束しているのではなく、無数の世界からただ一つ三毛猫の世界を選んでいるに過ぎないと。
この解釈の肝は、可能性は収束せずにそのまま残るという点だ。収束のことを波動関数の収縮と言ったりするが、収縮現象そのものが存在しないことになる。これがどういう利点を持つのかは今のところわかっていない。
「長い、死ぬほど退屈にゃ」あくびを一つしながらヨシノが言った。
「『そうにゃっている』でよいではないか」
「あいにく、私は全部理解できないと気がすまなくてね」
そう言えば、ヨシノがわざとらしいあくびをした。お返しとばかりにしっぽを撫でてやったら、ふしゃーっと蒸気が噴き出したような鳴き声とともに睨まれた。どうしてそんなに不遜な態度なのか理解に苦しむよ。
ふんっとヨシノは言って。
「当然にゃのじゃ。己の行いを顧みるのじゃにゃ」
ひとしきり自身の行いとやらを振り返ってはみたものの、心当たりはトンとない。
というか、そんなことはどうだっていいのだ。今は、ネコの手を借りたいのだ。
「童にできることなどそんなにはにゃいぞよ」
「あるだろ、ほらあれ」
「あれじゃわからないのお」
「…………」
懐から取り出したるは、にゃんちゅーる。ヨシノ大好物のこれには、マタタビが限界まで配合されている。その芳しい香りに逆らえるネコはいないといってもよい。
ヨシノが「にゃんと……!」という感嘆の声を漏らす。
「これ、やるから。好きだったろ」
「一日三本所望するのじゃ」
「ダメだ。一本」
「それは一日一本ということでよろしいか?」
ちょっと考えてみる。決して高くはない買い物である。毎日一本一か月で三十本。一年で三百六十四本。
「わかった。研究のためだと思えば」
「童としては研究とやらに手を貸したくはにゃいのじゃが、マタタビには替えられぬからの。童のプライドなどどーでもよいのじゃ」
やれやれとばかりにヨシノが首を振る。人語を口にするようになると、所作の一つ一つが人間らしく見えて憎たらしい。
ひょいとしっぽを新体操のリボンのように優雅に動かしたかと思えば、ヨシノは私に丸っこいおしりを向けてきた。
「ついてくるのじゃ、ヒューマン」
「……どこでそんな気取った物言いを悩んだのやら」
「そりゃあ、童の飼い主たる御主人様じゃ。告白もできぬような軟弱ものの」
「あー聞こえない聞こえない」
「都合のいいときだけ聞こえないふりをするのはどうかと思うぞ? サクラとかいう女を自宅に呼びつけたときにゃぞは、耳をでっかくさせて一言一句逃すまいとしていたじゃろ」
「なっ……!?」
開いた口がふさがらないとはこのことだ。あの時確かに、ヨシノは抗議とばかりににゃーにゃー鳴いていたがそういうことだったのか。
にやりとヨシノは笑って。
「風俗店にはじめてやってきたどーてーみたいでかっこ悪かったぞよ」
「あのなあ! 私は女だっ!」
「じゃあ処女じゃな。処女さ全開じゃ。あんなオドオドしてたら、気持ち悪いじゃろうて。声かけられただけでなに声上げているのじゃ。全身性感帯か?」
とっくに開ききっている口に、万力をかけられて無理やりこじ開けられているような感じがした。
目の前の三毛猫が発する言葉は、お上品さとはかけ離れている。いやそりゃあさ「あらあらうふふ、おネズミ捕まえてきたのですわー」という言葉を望んでいたわけではないが、あまりに低俗すぎるではないか。
「盛りのついた猫というのを知らんのか? や、愚問だったにゃ。研究室に閉じこもっている処女にはわからんことであったの」
失敬失敬、と言いながら先へと進んでいく小さな体に怒りを覚えたのはこれがはじめてのこと。それでも蹴っ飛ばすようなことはしない。ネコを実験に用いるなと愛護団体がうるさい昨今、骨の芯まで炎上しそうだ。
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