猫の気まぐれ

  秋の心地良い昼下がり、細い塀の上をいとも容易く走る一匹の猫が居た。軽々しいステップからは想像できないほど豊満なボディで腹を揺らしている。やがて、一匹の犬が繋がれている家の塀に辿り着いた。


「おい、そこのおデブちゃん。ここは俺の縄張りだ、妙なマネをすると噛み殺しちまうかもしれないぜ」


 犬は首に繋がれた鎖を忘れたかのように威勢よく吠える。それを猫はさらりと見下している。鎖が引っ張られてがしゃがしゃと音を立てている中、優雅な毛繕いが始まった。


「お前どこの猫だ? 毎日たらふく飯を食べているみたいだな、この辺りじゃ珍しい」


 猫は耳だけを動かしてそれを聞くとまた元に戻した。犬の目の前にしっぽが来るように体勢を変えて、置き時計の振り子のように左右に振り始めた。


「この俺をなめているのか? 用事がないならさっさと消えろ!」


 しっぽに噛みつこうとしたが、後一歩のところで鎖に阻まれてその口は空を切った。しばらくの間しっぽを捕まえようと追いかけたが、結果は虚しく終わった。


 猫は一通りからかい終えたのか餌も水も入っていない器をちらりと見ると、すっと立ち上がって自らが来た方向に帰って行った。


「二度と来るなよ! この負け犬が! 

……負け猫が!」


 今日は嫌な一日だった、と犬は丸くなって眠った。


 次の日も、その次の日も猫は毎日犬をからかいに来た。どうやらルーティンに組み込まれたらしい。


 やがて、痩せ細った犬には毎日威勢よく追い払うのが難しくなった。それ以来体力を温存するために吠えるのをやめた。


 ある日、また猫がやってきたかと思うとついに犬の縄張りまで入ってきた。ゆっくりと歩き、襲い掛かろうとする犬を睨んで動きを止めると、口の中に貯めておいたカリカリを空の器に落とした。


「なんだこれは、同情のつもりかデブ猫め。それともからかいの一つか?」


「……腹減ってるんだろ」


 皮膚に浮き出た骨を見つめながら言った。


 犬は予想外の言葉に驚いてしばらく呆然としていたが、カリカリを食べ始めた。久しぶりの食事に腹と胸が満たされる。


「悪かったな、猫は嫌なやつばかりだと思っていた。良いやつもいるもんだな」


 猫はくるりと回って尻を向けるとしっぽで犬の顔をとんとん、と優しく叩いた。それから何も言わずに帰っていった。


「……やっぱり嫌なやつかもしれない」


 それから数日の間姿を現さなかった猫が、強い雨の降り注ぐ日に突然現れた。


「また来たのか。猫は水が怖いだろう」


 猫は無言で縄張りに入ってくると、鎖が繋がっている杭の周りを掘り始めた。


「何してる!」


「ここから逃げるんだ、このままじゃ死ぬよ。さっさと引っ張れ、雨の音で飼い主には聞こえない」


 猫が地面を堀り、犬が鎖を引っ張る。二人の連携プレイで見事に杭は地面から抜けた。猫が器用に門を開けるとしっぽで着いてこい、と合図した。


 猫は自分の縄張りへ向かって地面を走った。犬も鎖を引きずりながらついて行く。


「おい、デブ猫。なんで俺を助けた」


「さあ、猫の気まぐれだよ」

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