悪魔がささやく楽園

青いひつじ

第1話

「あら、鼻水出てる。ちょっと顔見せてね。フンーってやってごらん」


「ヒヨコ組は、鼻風邪が流行ってるみたいで大変ね」



とある保育園。

ここでは、子供達の自己成長力を高める、特別な教育法が取り入れられている。

教室内には、"お仕事"と呼ばれる知育玩具が置かれていて、子供達は取り出して片付けるまでの流れを練習し、学んでいく。

今年の8月から、私は訳あって、この保育園にやってきた。



「かな先生、明日からよろしくお願いしますね。私達職員は家族です。分からないことや悩みがあれば、いつでも相談してくださいね」


そう言うと、田中園長は私に手を差し出した。

挨拶を終え応接室を出ると、扉の近くに赤ちゃんを抱いた女性が立っていた。



「あら、ゆうたくんママ。どうなさいましたか」


「あの、突然すみません。園長先生にご相談がありまして、今お時間大丈夫でしょうか」


「もちろん大丈夫ですよ。このまま、こちらへどうぞ。それでは、かな先生、また明日」


2人は応接室へと入っていった。




次の日。


「かおる先生おはようございます。本日より、よろしくお願い致します」


「かな先生、おはようございます」


かおる先生は、私が受け持つことになったヒヨコ組の、もう1人の先生である。



「かな先生、保育士歴長いんですってね。頼りにしてるわよ」


「とんでもないです。ご指導のほど、よろしくお願い致します」



教室の準備をしながら、私は昨日のお母さんのことを思い出した。



「そういえば、ヒヨコ組にゆうたくんって子いますよね。お母さんが昨日来てたみたいですけど、何かあったんですか?」



「あー。ゆうたくんが家で、"こないだ友達に叩かれた"って言ったみたい。でもそれ、何ヶ月も前の話なのよね。親御さんにもその時伝えてるし。子供が言う"こないだ"ってすごく前のことだったりするじゃない?」



「よくありますよね」



「私達も全てを真に受けず、丁寧に慎重に親御さんへ対応していくことが大切よね」


かおる先生は、どんな時も冷静で公平な先生だった。





ある日のオムツ替えの時だった。


「まきちゃんー、トイレの時間だよー」


かおる先生が、まきちゃんの手を握ろうとすると、まきちゃんがその手を振り払った。


「やだー。かなせんせーがいいー」


私はかおる先生へ駆け寄った。


「先生お忙しいと思うので、変わりますよ」


「あらそう?じゃあ、お願いしてもいいかしら?」


私は、かおる先生からオムツを受け取り、まきちゃんとトイレに入った。


「わたしね、かおるせんせーより、かなせんせーがだーいすき」


「まきちゃんは優しいね。みんなのこと好きだよね」


手を繋いで、帰りの歌を歌う。

まきちゃんはその時も、私の手を握っていた。





朝。


「まきちゃん、おはようございます。今日もお花のお洋服が素敵ですね」


私が声をかけると、まきちゃんは恥ずかしそうに笑った。


「この子、かな先生のことが大好きみたいで、家でもかな先生に会いたいってよく言ってるんです。いつもありがとうございます」


張り詰めていた糸が緩んで、コップの中の水が溢れそうになる。


「いつも頑張ってるから、見てる人は見てるのね」


かおる先生が肩を支えてくれた。 



かおる先生は、経験豊富で、落ち着いていて、とても頼れる先生。

ここにいる先生達はみな、チームワークを大切にする優しい方ばかりだ。

海のように広い心の園長と、明るく素直な子供達。

以前の園で、お局から執拗ないじめを受けていた私にとって、この園はまさに楽園だった。




働きはじめて3ヶ月。

子供達と"良い距離感"を保つのは、何年やっていても難しいことであった。

まきちゃんの園での様子は、少しずつ怠惰になっていった。


出したお仕事を片付けず注意をすれば、教室内を走り回った。

トイレに誘えば、イヤだと叫ぶようになり、お友達との喧嘩も増えてきた。

私は、走り回るまきちゃんの体を支えてお話をした。



「まきちゃん。お友達とぶつかったらどんな気持ちになるかな?」


「かなしいきもち」


「そうだよね。教室内はゆっくり、歩きましょう」


彼女はこのようにお話をすれば、すぐに落ち着いた。





11月のある日。

私は突然、園長に呼び出された。


「かな先生、少しお伺いしたいことがありましてね。昨日まきちゃんのお母様から、まきちゃんがお家で、"こないだ、かな先生から痛いことされた"と言ったと相談がありまして」


私を見つめる園長は、不気味なほど笑顔であった。


「疑ってるわけではなくてね。何か、思い当たる出来事はあったかなと思いまして。間違って、腕を強く握ってしまったとか」



最近あった出来事を振り返ってみたが、思い当たることはなかった。


「ご迷惑をおかけしました。しかし、思い当たることはありません」



「そうですか。私は、かな先生の言葉を信じております。もし、何か思い出したことがあれば、いつでもお話しくださいね」



この日の会話は、これで終わった。

明日からは、かおる先生がまきちゃんの対応をすることになった。

しかし1週間後、そのまた1週間後も、まきちゃんのお母さんからの相談は続いた。


以前は手を振ってくれていたまきちゃんのお母さんは、分かりやすく、私と目を合わせなくなった。

きっと、噂が広まっているのだろう。

保護者達の私を見る目は変化していき、心は少しずつ疲弊していった。




ある日のオムツ替えの時であった。

トイレの中から、かおる先生とまきちゃんの声が聞こえた。

私は、トイレの扉に耳を近づけた。



「まきちゃん、こないだ、かな先生に怒られて怖かったよね。腕掴まれて、痛かったよね」



「うん、いたかった」




かおる先生のつぶやく声は、まるで、悪魔のささやきのようだった。

信じたくはなかったが、絡まった糸がほどけるように、謎がするすると解けていった。


しかし、先生には、これまでたくさん支えられたのも事実である。

もしかしたら、先生も疲れが溜まっていたのかもしれない。

園長に相談することもできたが、私はこの件について、今回だけ目を瞑ることにした。



すると1週間後には、まきちゃんのお母さんからの相談もなくなり、少しずつ以前の日常へと戻っていった。

私はゆっくりと、この出来事を忘れていった。





4月。

今年から子供達の数も増え、それに伴い、新しい先生がやってきた。


ひとみ先生。

若く、愛らしく、声の可愛いひとみ先生に、子供達はすぐに懐いた。



私がオムツ替えをしようとすると、子供達は、ひとみ先生がいいと言った。


お昼ご飯の時間、私が、一緒に座ってもいい?と聞くと、ひとみ先生がいいと言った。


お昼寝の寝かしつけも、ひとみ先生がいいと言った。


帰りの歌で手を繋ぐ時は、皆、ひとみ先生を取り合った。




ある日、ひとみ先生が、1人の女の子を注意していた。



私はその子をオムツ替えに誘い、トイレに入った。



「ゆいちゃん、大丈夫?ひとみ先生、怖かったね。

腕掴まれて、痛かったね」




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