第五章 9 新しい任務
砦に戻った私は、深夜、こっそり宿舎を抜け出すと崖の細い道を上っていく。カンテラで藪の先を照らすと、湯気が立ち上っているのが見える。私は辺りを見回し、他に誰もいないのを確認してからすぐに服を脱ぎ始めた。
「温泉だ――――っ!!」
私は岩場に立ち、歓喜の声を上げて足をチャポンとつける。ずっと任務の間、この温泉に入ることを夢見ていたのよね! 温度を確認してから入ろうとした時、湯気で隠れた岩場の方から、「ジャンヌ?」が聞こえた。不意に名前を呼ばれた私は、びっくり仰天して足を滑らせお湯の中に勢いよくはまってしまった。焦ったようにお湯をかき分けてやってきたのは、ジュリアンだ。私は「は、はいっ!?」と、不自然に高い声を上げてしまう。腰にタオルは巻いているけれど、上半身は裸。もちろん、湯気で見えないし、はっきり直視もしていないけれど、心臓がドキドキしてきて、私は慌てて背を向ける。
「ご、ご、ごめんなさい!! だ、誰もいないと思って、入ってきてしまいました」
私はギュッと目を瞑り、すぐに立ち上がろうとする。だけど、焦ってうまく立てない。そんな私の横から、手が差し出された。恐る恐る振り向くと、ジュリアンがニコッと笑っている。
「実は……君を待っていた」
そう言われて、私は心臓が飛び出そうになった。
(わ、私を温泉で……は、裸で……ま、待っていたって、どういうこと!?)
ジュリアンは岩の後ろに移動してお湯につかっているから、私からは姿は見えない。だけど、一緒にお湯に入っている事実だけで、私はものの三秒も立たずのぼせそうになっていた。ジュリアンと温泉でばったり遭遇するのは初めてじゃないけど、今日は待っていたと言っていた。私と温泉に入りたくて!? そ、そんなわけないわ。
私は自分の胸に『期待しちゃダメ!』と言い聞かせる。それからすぐに『なにを期待してるの~』と、頭を抱えそうになった。それにいつもみたいにクロエ嬢と呼ばず、ジュリアンは私を『ジャンヌ』と名前で呼んでくれた。それが嬉しくて、私の顔はもうとっくに真っ赤だ。これは……水風呂にでも飛び込まないと、ほてりが静まりそうにない。水風呂なんてないから、飛び込むとしたら川か井戸しかないけど!
後で、井戸の冷たい水で行水でもしよう――。
煩悩を振り払わないと今夜は眠れそうにない。
「無事でよかった……無茶な役目を頼んだのに……ありがとう」
落ち着いた口調で言われて私は「は、はい!」とピンッと背筋を正す。おまけにお湯の中で正座までしてしまっていた。もしかして、話したいことってお礼?
私はこそっと岩のほうを振り返る。その顔を慌ててすぐに戻した。ジュリアンの頭が岩の向こうに見えたからだ。
「私もサーラが心配で助けたかったら……危ないところもあったんですけど、アルセーヌさんや、アリシアさんが助けてくれてなんとか……戻れました」
「君が行ってくれなかったら、サーラも他の兵士も助け出すことはできなかっただろう。君の勇敢さに敬意を……」
そう言われて、私はドキッとする。その言葉に、しっかりジュリアンの心がこもっているように感じられたから。お世辞じゃない。おべっかじゃない。本心からそう思っていてくれるのだとわかる。
「心配……してくれたんですか?」
私はおずおずと尋ねる。ジュリアンは笑うように、「もちろん」と答える。
「でも、君ならやり遂げてくれるだろうとも思っていた……君じゃなければ、できなかったと思う」
「そんなことないわ……きっと他の誰かでもやり遂げられたわよ。私は運が良かったのね」
「その幸運を、もう少しだけ……貸してもらえないだろうか」
そう言われて、私は「え?」と振り返る。ジュリアンがどんな表情でいるのかわからないけれど、声は真剣だった。
「実は王都に戻ることにした。ジルベールの婚約発表のパーティーに出席しようと思う」
「ええっ、それはもちろん……弟君の大事な婚約パーティーですものね! 私もやっぱり行ったほうがいいと思うわ」
私は納得して頷いた。ジュリアンは一度は断ろうとしていたけれど、やっぱり出席することにしたのだろう。
「君にも、同行してもらいたいんだ」
そんなジュリアンの言葉に「ええ、もちろん」と返事をしてから、「ええっ!?」と大きな声を上げる。思わず立ち上がった私を、振り返ったジュリアンが見る。タオルがはだけそうになり、慌てて胸を押さえてお湯に沈んだ。
「私に同行って……私も一緒に王都に戻る、ということ!?」
「私の付き添いということなら、君が王都に戻ることも問題にはならないだろう?」
それは確かにそうかもしれないけれど、驚かれるのは間違いない。それにいい顔をされるはずもなかった。私はジルベール殿下の元婚約者だった上に、その恋人を階段から突き落とした最悪最低の女ってことになっているのよ。そんな私と一緒にいれば、ジュリアンの立場が余計悪くなりそうだし、評判も貶めることになりそうだ。
「あのジュリアン? 私はよしておいたほうがいいんじゃないかしら……私……ひどく不人気な上に、社交界では歓迎されていないもの。両親にも見捨てられてるし……護衛とか、ダンスのお相手なら、ほら! サーラのほうが……」
言いかけて、私はサーラがまだ療養中だったことを思い出す。マリーも兵士やサーラの看病で砦を離れることはできない。
「大丈夫。それならきっと君より、私のほうがひどい評判だから。それに、今回王都に戻るのは調べたいことがあるからなんだ」
「調べたいこと?」
「イブロアと内通している者がいる。それも王宮内に。それが誰なのか確かめたい」
「内……っ!!」
大きな声を上げそうになった自分の口を私はパッと両手で塞いだ。ジルベール殿下のパーティーは、ジュリアンが王都に戻る絶好の口実になる。それに、王宮内のことは王宮に戻らなければ探り難い。砦を留守にしても、王都に戻らなければならないとジュリアンが判断したのであれば、きっとそれなりの理由がある。
私はアルセールさんが話していた修道士たちのことを思い出した。あの人たちが敵国に入っていったことと関係あるのかもしれない。
これは任務の話なんだ。のぼせていた気持ちも吹っ飛んで、私は真剣な顔になる。
「わかった……そういうことなら一緒に戻るわ。役に立てるかどうかわからないけれど……」
「役に立てるよ。今でも十分に役に立っている」
お湯の音がして、ジュリアンが立ち上がったのがわかる。「先に上がっているよ」と、彼は言い残して湯気の向こうに消えていった。
王都――。
荷馬車に押し込められて、追い出された日のことを思い出した。
ジュリアンが一緒でなければ、決して戻りたいないなんて思わなかった。
でも、ジュリアンが戻るというなら、いいわ。私もどこまでもお供しますとも!
たとえ、そこが戦場であろうと、王宮であろうと、地獄であろうと。
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