第四章 7 理由

 アリシア・ルーナン。それが、アルセーヌさんが連れてきた女性の名前だ。私はこれから、彼女に成りすますことになるんだから、しっかり覚えておかないと。

 アルセーヌさんが宿を離れている間に、私はアリシアさんの着替えを手伝う。

「わおっ、これなら知り合いと顔を合わせたって、誰もあたしだなんて気付かないよ! どこから、どう見たって完璧なお嬢様だ」

 アリシアさんは、鏡の前で嬉しそうに笑って裾を翻しながらクルッと回って見ている。


「ああっ、まだ動かないで! 髪を整えてる最中なんですからね」

 私は櫛を握ったまま慌てて言い、彼女をドレッサーの前に座らせた。といっても、私は実のところ髪を整えるのがあまり上手じゃない。自分の髪も結んでまとめているくらいだもの。

「あんた、自分の結婚相手を自分で見つけるために、旅をしてるんだって? あたしはてっきり、あの従者の男といい仲で、親の反対を押し切って駆け落ちでもしてんのかと思ったよ!」

「アルセーヌさん? まさか! そりゃ、アルセーヌさんは頼りになる人だけど……そういうのじゃないわよ」


 私は櫛を横に振りながら答える。頭に浮かんできたジュリアンの顔に、パッと赤くなった。そんな私を鏡越しに見て、アリシアさんは楽しそうにククッと笑う。

「お金持ちのお嬢さんって、もっと大人しくて、何でも親や家の言いなりになってんのかと思ったけど、あんたはそうじゃないんだね。気に入ったよ」

「ええっと、実はその……うちの両親は人を見る目が少しもないのよ。三十才も歳の離れた人を連れてきたり、お金持ちだけど、性格が悪くて鼻持ちならない人だったり……だからもう、任せておけないと思ったのよ! やっぱり、自分の結婚相手は自分で選びたいじゃない?」


 結婚相手を見つけるため、というのはアルセーヌさんが彼女に話したのだろう。敵国に侵入して、牢獄から捕虜となっている兵士と友人を助けるため、なんて正直に話すわけにはいかない。嘘を吐くのは少しばかり後ろめたいけれど、任務のためだ。

「そりゃそうさ! 一生一緒にいる相手だからね。気に入らないやつが同じベッドで寝ているなんて、あたしだって嫌だよ。我慢ならなくて、きっと毎晩ベッドから蹴落としてやりたくなるからね!」

 鼻頭に皺を寄せるアリシアさんを見て、私は思わず「そうね」と笑う。


「あたしはうまくやるからさ。あんたもいい人、必ず捕まえてきなよ! くれぐれも、見た目だけのダメ男や、口が上手い詐欺師なんかに欺されちゃダメだからね。あんたみたいな無垢なお嬢さんを引っかけて、欺そうとする男なんて山ほどいるんだ」「ええ、わかってる。ありがとう、心配してくれて。それに、協力してくれたことも感謝しているわ。おかげで、私は……自由に動けるもの」

「あたしはこんなおいしい仕事がもらえて、ラッキーだと思ってるんだ。なんせ、お嬢様のふりをしているだけで、たんまり金がもらえるんだもの。そのお金があれば、こんな国からも出られるからね」

「アリシアさん、この国が嫌いなの?」

「嫌いっていうか……一つもいい思い出がないからね。生まれた時からろくな目に遭わなかった。他の国にいったって、うまくいくわけじゃないかもしれないけど。ここよりはいくらかマシかもしれないだろう?」

「そう……そうね。そうかも」


 私は視線を下げて、考え込む。ここは国境の防衛拠点。そのうち、イブロアとフロランティアスが戦争になれば、この当たり一帯も戦場になるかもしれない。その前に、アリシアさんもどこか別の安全な場所を目指すほうがいいかもしれない。だけど、それは話すわけにはいかないことだ。


 部屋の扉がノックされて、アルセーヌさんが入ってきた。

「準備のほうはどうですか?」

「ああ、もうちょっとで終わるわ。アリシアさんの髪型を整えたらね」

 私は振り返って言う。アルセーヌさんはそばにやってくると、「私が代わりましょう」と言う。アルセーヌさん、女性の髪を整えたことがあるのかしら。

 私は「それじゃあ、お願い」と、櫛を渡してアリシアさんの後から退けた。

 

 アルセーヌさんは、アリシアさんの髪に触れると、櫛を入れていく。慣れた様子で難しいヘアアレンジをする彼を、私は驚いて見ていた。これは意外な得意だわ。

「アルセーヌさん、上手なのね……」

 私が褒めると、アルセーヌさんは「昔、修道院にいた頃、孤児の女の子にせがまれて、結び方を勉強したのです」と答えていた。

「あっ、そうだったのね」

 ごめんなさい、アルセーヌさん。私、てっきり……もっと不純な理由を考えていたわ。それはアリシアさんも同じだったらしく、目を丸くして笑い出す。

「あんた、いい人だね!」

 アリシアさんに言われたアルセーヌさんは「それほどでも」と、少し照れたように咳払いしていた。


 

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