第二章 5 肩の痣

 その日の夜、みんながお酒を飲んで騒いでいる中、私は一人兵舎を抜け出して、砦の近くの温泉に入りに向かう。もう日付も変わる時間だし、今日は誰もいないはず――。

 温泉の湯気が木立の向こうに見えてきて、私は用心深く周りを確かめる。

 温泉に人影なし。猛獣の気配もなし。私は着替えやタオルの入ったバスケットを石の上に置いて、さっそく服を脱ぐ。

 

 ひとまず体を洗って、チャポンと足をつけてみると、温もりが指先から伝わってきて、ほぉ~と息が漏れた。

 お湯に肩まで浸かり、岩の陰に移動する。落ち葉が、湯に浮かんでいた。

 

 私はまだ痛みが消えない肩に手をやる。

 デュラン将軍に一撃を受けた跡が、青紫色に変わってしまっっていた。

「痣になっちゃってるじゃない……本気でやるなんて、まったく大人げない!」

 独り言を漏らし、ため息を吐いて両足を投げ出す。


 もっと、鍛えなきゃ――。

 あっちの世界だって、ゲームの中では戦えていたけれど、リアルの私は運動音痴もいいところで、ランニングも筋トレも苦手だった。でも、こっちの世界ではそれは通用しない。私の頭のイメージに、体が全然追いついてこない。


 すぐ、息切れをしてしまうし、反応だって遅い。今日だって、デュラン将軍の動きは見えていたし、勝てない相手じゃないと思った。でも、体がついていかなかった。

 私はお湯を両手ですくう。ゲームだって、トレーニングは必要じゃない。キャラ育成の一環だと思えば、辛い筋トレも頑張れる。


「まずは、腹筋と腕立て伏せからよね。宿舎内でできることから始めた方が良さそうだし」

 伸びをしてから、岩に頭をもたれながら夜空を眺める。

 なんだか、こっちの世界に馴染んできた気がする。その一方で、以前の世界の自分の記憶が霞んでいくように思えた。元いた世界でゲーム三昧だったのは覚えているのに。それ以外のことを、私はあまり思い出せなくなっていた。


 これって、もしかして――こちらの世界にいる時間が長いほど、元の世界での記憶が薄れてしまうものなの?

 だとしたら、そのうち、私は本当に『ジャンヌ・ド・クロエ』としてこの世界で生きるしかない、ということなのかも。


「それでも、いいかな……」

 岩に頭を預けながら、夜空を見上げる。

「ずいぶん、頑張っているみたいだね」

 後ろで声がして、私はバッと振り返った。

 岩に両肘をかけたジュリアンが、頬杖をつきながらこっちを見ている。


「うきゃああっ!」

 私の悲鳴と水音が辺りに響く。私は頭の上に載せていたタオルをつかんで、バッと胸元を隠した。といっても、湯気と岩のおかげで、見えていないと思うけれど。

 私の方からも、ジュリアンの姿は顔と首もとまでしか見えない。


 ジュリアンの方がどう考えても、先客だったようだ。

 無言で静かに入っているから少しも気づかなかった。

 それにしても、この状況に動揺しているのは私だけみたいで、ジュリアンは真っ赤になっている私を目を丸くして眺めている。


 気にしない人なのかしら――。

 それとも、こんなに美形男子だから、女性なんてうんざりするほど見慣れているのかもしれない。ええ、きっとそうだわ。

 女の人の肌をチラッと見たくらいでは、動じないのよ!

 

 そうじゃなかったら、私に全然女性的な魅力が感じられないとか。

 そうよね――出会った時に、猛獣の返り血を全身に浴びていたような女だもの。

 一人落ち込んで、膝を抱えながら暗い表情になる。

 

 こっちの世界の私、『ジャンヌ・ド・クロエ』は性格はキツくて、問題ありだけど、顔はそれほど不細工じゃない。それどころか、元の世界の私よりずっと美人で、スタイルもいい。公爵家で、ちやほやされて育っただけあって、髪も肌も艶々だ。

 この砦にやってきてからは手入れも怠っていたし、高級な石けんがあるわけでもないから、髪もボサボサになっちゃってるけど。

 それでも、毎日ちゃんと梳かしているし、洗っている。

 

 きっと、私なんて目に入らないくらい、美人をたくさん見てきたのね。美形なんだもの。モテモテに決まってるわ。そんなことが、どうしてか少しショックで、私は拗ねたように唇をへの字にする。

 

 この人の弟、ジルベール殿下ももてはやされていたけれど、その姿を見たところで、私は何も思わなかったのに。このゲーム内の設定では、ジルベール殿下は私の元婚約者ってことになっている。でも、私はヒロイン役のレリアにも嫉妬を感じない。


「ジルベールって口うるさそうだし、むっつりスケベっぽいから、全然、私の趣味じゃないよね……むしろ、レリアの方が気の毒に思えるくらいだわ。ちゃんと、幸せにしているのかしら?」

 つい、思っていたことが、口から出ていた。私はハッとして、ジュリアンを見る。


「い、今の聞こえた!?」

「いいや、何も聞いてないよ」

 ジュリアンは少し考えてから、ニコッと微笑んでいた。

 私は「よかった」と、胸をなで下ろす。


「そうか……ジルベールは口うるさくて、むっつりスケベになっているのか……」

 背を向けてお湯に沈んだジュリアンの姿は、岩の陰で見えなくなる。

 忍び笑いを漏らす声が、湯気の向こうから微かに聞こえた。

 やっぱり、聞いていたじゃない!

 

 ジュリアンは今こうして一緒に温泉に浸かっていることを、何とも思っていないようだし。これも二度目だから、私も気にしないことにした。

 どうせ、岩の陰で見えないんだもの。ただ、やっぱりドキドキするのだけは、どうしようもなかった。


「ジュリアンは……王都に戻りたいと思わないの?」

 私は岩を隔てた向こう側にいるジュリアンに尋ねる。

「……あまり思わないな。君はやっぱり、戻りたいんだろうか?」

「あなたも知ってるでしょう? 私は嫌われものだもの。でも、追い出されて、よかったって、今はちょっと思うわ」

「……こんな砦に連れてこられて、辛くはない?」

「困ることはあるけど……あまり辛いとは思わないわね。だって、ここにはマリーもいるし、サーラもいるもの」

「舞踏会や演劇だってないのに……つまらないと思うんじゃないかな?」

「言ったでしょう? 私は嫌われ者だったって……舞踏会に出たって、つまらなかったと思うわ。だって、きっとひとりぼっちじゃない。でも、ここにはマリーやサーラもいる。仲間がいるほうが、楽しいじゃない? それに、ここには何より……温泉があるもの!」

 私は前の世界でも、温泉好きだったのよね。お金を貯めて、一人で各地の温泉を巡るのが趣味だったし。


 ジュリアンの声を押し殺した笑い声が聞こえてくる。その笑い声が止むと、「私もだよ」と声が返ってきた。

「私も、君と同じ理由で、王都にあまり戻りたいとは思わないんだろうな……」

 ああ、そうか。ジュリアンにとって、砦にいる人たちが仲間なんだ。


 私はジュリアンが、王都ではあまりよく思われていないと話していたことを思い出した。ジュリアンが嫌われ者だったとは思えないけど。でも、きっとあまり居心地がいい場所ではなかったのね。


 訳ありな王子様と、訳ありな公爵令嬢。

 意外と、私たちってお似合いなんじゃないかしら? 

 私は急に冷静になって、何考えているのと自分を心の中で叱責する。

 確かにこれは乙女ゲームではあるけれど、私は恋をしたいわけじゃない。

 生き残って、元の世界に戻りたい――。

 

 戻りたいと思ってるのかな? 私――。


「明日、マリーのところに行ってシップ薬をもらってくるといい。それと……」

 岩の後ろで水音がする。湯気の向こうに、立ち上がったジュリアンのシルエットがぼんやりと見えた。私は慌てて目を逸らす。

「マルセルには、一言言っておくよ」

 ジュリアンはお湯から上がったようで、姿が見えなくなった。私は驚いて、肩に手をやる。

 痣のこと、気づかれていたんだ。私は真っ赤になって、ブクブクとお湯に沈んだ。


 


 

 

 

 


 

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