第二章 10 夜中の来訪

 一度、ベッドに入って眠ったけれど、私は外の風の音ですぐに目を覚ましてしまった。ビスケットとミルクだけの食事だけだったから、空腹で眠れないのかも。パンが少し残っていたのを思い出す。

 寝間着の上にショールを羽織り、カンテラを提げて外に出ると、風が強かった。

 ショールが飛ばされないようにしっかりと押さえて、厨房に向かって歩く。

 庭の柵の前で誰かが立っていた。私は思わず身構えて、「だ、誰!?」とカンテラをかざす。怪しいやつだったら、このカンテラをぶつけて、大声で叫ぶつもりでいたけれど、「驚かせてしまって、申し訳ない。私だよ」と少し焦った声が聞こえた。


「ジュリアン……で、殿下?」

 私はその声で、すぐにカンテラの灯りを向ける。ぎこちなく笑みを作ったジュリアンは、頭の後ろに手をやっていた。

 その顔を見て、私は胸をなで下ろす。なんだ、ジュリアンなら大丈夫よね。

 急ぎ足で歩み寄ると、灯りのおかげでその姿がよく見える。

「もしかして、どこか怪我を!?」

 こんな時間に、救護室を訪れる理由は他に思いつかなかった。それに、ジュリアンは全身泥まみれ、靴もズボンも上着も、ひどく汚れていた。先頭に立って救出作業をしていたと聞いている。もしかして、今の今までずっと落石事故の片付けをしていたのだろうか。もう、深夜をとっくに過ぎているのに。

 私は爪でも剥がれたんじゃないかと、心配になってジュリアンの手を取る。手は洗ったようで、土はついていなかった。切り傷もなし、爪が剥がれている様子もない。骨折もしていないわよね。私は右手をじっくりと確かめてから、すぐに左手をつかんで確かめる。

 ジュリアンは「あの……」と、困惑したように呼びかけてきた。ジュリアンの手をしっかり握り締めている自分に気づいて焦って離す。

「あああっ、ごめんなさい! 違うんです。怪我がないか確かめていただけで! あ、それとも、脚とか膝が痛むとか!? マリーは寝ているんですけど、魔法薬なら私も少しだけ使えるんです。薬の種類は覚えましたから!」

 私は後ろに下がって、両手を振りながら早口で答えた。そんな私を見つめていたジュリアンはフッと笑う。

「私は大丈夫。怪我をしているわけじゃない。負傷した兵士たちのことが気になって、様子を見に行こうと思っていたんだけど、片づけや、色々処理していたらこんな時間になってしまった。やっぱり、明日にしたほうがよさそうだね……君を起こしてしまって、悪かった」

 救助した兵士たちのことにも、ちゃんと気を配っているんだ。いい指揮官じゃない。

「私は殿下のせいで起きたわけでなくて……お腹が空いたものだから、厨房を物色……ではなく、何か温かいものでも飲んでから寝ようと思っていたところなんです!」

 私はふと、彼の顔を見る。

 そういえば、ジュリアンはずっと救助作業をしていたのよね。

「殿下……せっかくですから、何か飲んでいかれませんか? 温かいミルクか、ハーブのお茶くらいしか出せないかもしれませんが……」

 遠慮がちに申し出ると、ジュリアンは迷うように黙った後で、「いいや、戻るよ」と答える。そうですよね~。私は残念な表情になる。

「君も疲れているのに、迷惑をかけられないよ。明日、もう一度、様子を見に来ることにしよう。君やマリーのおかげで、負傷者は無事だったと聞いているから」

 踵を返して立ち去ろうとするジュリアンの服の袖を、「待って!」と私は咄嗟につかんだ。びっくりしたように、ジュリアンが後ろを向く。

「でも、あの……食事を摂っていないのでしょう!?」

「食べないのは慣れているから大丈夫……」

「ダメよ! そんなことに慣れないでちょうだい」

 私は敬語を忘れていつもの口調になってしまった。この人、なんだか弟とか、年下男子を見ているみたいで、放っておけないのよね。

 年齢は私よりも、上のはずなんだけど――。


「それに、私もお腹が空いて、パンをつまみ食いしようと思っていたところなの! 一人が二人になったところで変わらないわ。見られたからには、共犯者になってもらうわよ」 

 私は腰に手をやって、人差し指を殿下の鼻先に突きつける。不敬な振る舞いだと、不愉快に思われたらどうしようと、ビクビクしていた。だけど、ジュリアンは目をパチクリさせた後で、小さく笑い出す。

「なるほど……そういうことなら喜んで共犯者にならせてもらうよ」

 

 厨房に入ってカンテラをテーブルに置くと、私はすぐに準備を始める。

 火を起こしてミルクを温め、パンを切り、バターをたっぷりと塗って、蜂蜜とチーズを載せる。これがおいしいのよね!

 私はふと、ジュリアンが立ったままでいることに気づいて、「座ったら?」と椅子を勧めた。

「……汚れているから、このままでいいよ」

「王宮の豪華なソファーじゃないのよ。木の椅子なんだから汚れても拭けばすむわ。立ったままでいられると、私も立ってなくちゃいけなくなるでしょ。だって、ジュリアンは……殿下ですもの」

 皿をテーブルに並べながら言うと、ジュリアンは「そうか、それなら遠慮なく座らせてもらうよ」と腰を下ろす。私はその前にミルクのカップを置いた。


「殿下なんて、呼ばなくていいよ。ここでは誰もそんなふうに呼ばないから……それこそ、王宮じゃないからね」

「ジュリアン殿……ジュリアンは、変わってるわね」

 私はミルクを飲みながら、向かいに座る彼をマジマジと見る。

「そうかな? まあ、王宮にいた頃は、よく言われていたけれど……おかしなことばかり熱心にやっていたからね」

「いい意味で変わっているという意味よ。だって、少しも偉そうじゃないもの。ジルベーヌ殿下みたいに、堅苦しくないし……こうして、普通に話してくれるでしょう?」

「ジルベールは、偉そうで堅苦しかったのか」

 おかしそうに言いながら、ジュリアンはチーズと蜂蜜のパンを頬張る。

「あっ、パンが硬くなっているけれど、我慢してね! 今日はパンを焼く暇がなかったの」

「いや、いいよ……うまいな」

 ジュリアンはやっぱりお腹が空いていたのか、パクパクとパンを口に運んでいた。そんな様子を、私は頬杖をついて眺める。なんだか、保護欲をかき立てられるタイプの人ね。

「王宮にいたら、しかめっ面のジルベールより、ずっと人気があったんじゃないかしら?」

 心で思ったはずの言葉が、無意識に声に出ていた。

 ミルクを飲みかけていたジュリアンが、軽くむせる。

「あっ、へ、変な意味じゃないわよ! ジュリアンは兵士のみんなにも、尊敬されているみたいだし……穏やかだし、怖くないし、それに頼りになりそうだから!」 

 私は赤くなって手を振った。


「そんなふうに褒められたのは、初めてだよ」

 ジュリアンは「そうか、君にはそんなふうに見えるのか」と、楽しそうに笑みを浮かべている。

「そうなの? きっと、みんな思っていても、恥ずかしがって言わないのね」

「私が王宮にいても、それほど人気はなかったと思うよ……評判はあまり良くなかったから」

 ジュリアンは笑みを作ったまま、呟くように言った。

 私はその顔をマジマジと見つめて、「どうして?」と尋ねる。

 それは聞いていいことなのかどうか、わからない。けれど、知りたかった。私はこの人のことを、もっと知りたい。

 私の運命はこの人にかかっているから、という理由だけではない。

 不思議な人だと思ったから。こんなに魅力たっぷりで、能力もあるのに、辺境に送られて、苦労している。

 そのあげく、敵の襲撃でこの砦は陥落して、命を落とす結末が待っている。

 その結末を私は知っているけれど、この人は知らないんだ。

 私は喉が閉まるような苦しさを覚えた。それを知れば、この人はどうするのだろう。その不運な結末を回避する方法を考えてくれるのだろうか。そもそも、結末って変えられるものなの?

 私はジャンヌ・ド・クロエの日記を思い出す。

 結末はどう足掻いたところで、変えられないのかもしれない。


「怠け者だったからね」

 ジュリアンははぐらかすように軽い口調になる。

 私はつい笑ってしまった。

「やっぱり、あなたが王宮にいたら人気者間違いなしよ」

 こんなに話しやすくて、親しみやすい人なんだもの。私はジュリアンを見つめる。乙女ゲームのヒロインみたいに、目がキラキラしちゃってるかもしれない。

 でも、せっかくこの世界に飛ばされてきたんだから、その気分に少し浸るくらいなら、許されてもいい気がした。

「それは残念だな。だけど、この砦にいたから、君と出会えた」 

 ニコッと笑うと、ジュリアンはパンの残りを平らげて、ミルクを飲み干す。立ち上がった彼は「おいしかった。ありがとう……」と、私を見て微笑む。

「も、もう行ってしまうの……ゆっくりしていけば?」

「夜も遅いからね。君と話しているのは楽しかったけれど……寝る時間を奪うわけにはいかないよ。朝も早いだろう?」

「それもそうね……あっ、お皿はそのままでいいわ。私が片づけるから」

「そう? じゃあ、先に戻らせてもらうよ。お休み、ジャンヌ」

「お休みなさい……ジュリアン!」

 私は急いで立ち上がると、出て行く彼に声をかける。扉が閉まるまで見送ってから、急に速くなった胸に手を当てる。

 

 私と出会えたって――それ、どういう意味!? 

 よかったって思ってくれているってこと? それって好感度ちょっと上がってる証拠!? 

 名前で呼ばれたし――。

 今さら、ドキドキしてくる。

 ジルベール殿下の時みたいに、露骨に嫌われてはいないみたいだけど。

 社交辞令で言ってくれただけ? そうかもしれない。ジュリアンは口が上手そうだ。

「天性の女たらしなのかもしれないわね……あの人」

 だから、砦に送られたとか? そんなわけがない。

 私は扉を開いて外に出る。もうジュリアンの姿は見えなかった。

 夜の闇の中に佇みながら、私はしばらく風に当たる。


 ジュリアンに全部事情を話して、一緒にここから逃げようと言ったら。

 頷いてくれる?

 

「なんて、無理に決まってるじゃない……」

 ジュリアンが責任感の強い人だということは分かっている。そうでなければ、こんな夜中に兵士を心配して訪ねてきたりはしない。そんな人が、砦を放棄して、多くの兵士たちを残して、自分だけ生き延びようなんて微塵も思わないはずだ。

 きっと最後まで、守り通そうとする。このゲームの世界でも、彼は自分の責務を果たすために、この砦に残り、戦いの末に命を落とすことになるんだ。

 

 それを、ジュリアンは後悔もしないだろう――。

 それが全部、ジルベールの功績のように語られているゲームのオープニングに、私はひどく腹が立った。ジルベールは確かに戦いの後、和平を結ぶ功績を立てたのかもしれない。だからといって、ジュリアンが長年この砦を守ってきたことが無意味だったわけじゃない。ジュリアンが最後に命を落とすことだって、無駄死ではない。

 

 私はショールを強くつかむ。

 変えたい。この世界の結末を――。

 私が生き延びるためだけじゃない。ジュリアンと、この砦の人たちのためにも。

 

 そのために、私に出来ることは何?

 この砦とジュリアンを守るために、私がやるべきことは何?

 私がこの世界に飛ばされてきたことにもきっと、意味があったはずだ。


 ジャンヌ・ド・クロエとしての残りの人生を託されたのだから、必死に足掻いて、足掻いて、戦って、生き延びてやる。

 たとえ、生き延びられなくても、自分の納得いく生き方をしたい。

 

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