第二章 3 野獣を倒した者は

 救護室に例の令嬢を運んでから戻ると、アルセーヌが部屋で待っていた。

 ジュリアンは濡れたままの髪をタオルで拭きながら椅子に腰を下ろす。

「何かあったのですか?」

「いや……何でもないよ。それより、報告があるんだろう?」

「ええ、護送中の馬車を襲った野獣のことで、乗っていた男たちや兵士から事情を聞いたのですが、皆、気を失っていて覚えていないとのことです」

 ジュリアンはタオルを下ろして、眉を潜めながらアルセールの顔を見た。

「それはおかしいな。だとしたら、あの野獣をやったのは誰なんだ?」

「ええ……私もそのことが気になりまして。もしかすると、通りかかった者がいたのかもしれませんが」

 アルセーヌは調書を、ジュリアンに渡す。それを灯りのもとで目を通す。兵士は最初に野獣に襲われて、意識を失ったようだ。その後、逃げだそうとした男たち三人も野獣に攻撃されて失神している。


「それなら、クロエ嬢はなぜあの男たちがやったと?」

 呟きが漏れる。

「それは本人に尋ねてみないことには……野獣に襲われて混乱していたでしょうし、別の者と見間違えたのかもしれません」

「旅の剣士なのか、傭兵の仕業と考えるのが妥当かもしれないな」

「偵察をしていた敵国の者という可能性もあります。一応、調べさておきます。この辺りに入り込んでいる者がいるかもしれない。このところ、隣国が兵を増強しているという噂も耳にします。近々、動きがあるかもしれません。用心は必要でしょう」

「調査は任せるよ、アルセーヌ」

「承知いたしました。ところで、あのクロエ嬢とはお会いになったのですか?」

 ジュリアンは「ん?」と、顔を上げる。アルセーヌと目が合うと、沈黙の後で視線を報告書に戻す。

「ああ……マリーに任せてある。彼女がうまく面倒を見てくれるだろう。この砦に馴染んでくれるといいけれどね」

 灯りがジュリアンの横顔を照らす。砦近くの温泉で、ひどく驚かせてしまったのは悪かっただろう。こちらとしても、彼女が入ってくるなんて想像もしていなかったのだ。


 汚れた恰好をしていたから、マリーが親切で教えたのだろう。救護室には風呂などない。長旅でその上、野獣に襲われて心身ともに疲れ果てていたはずだ。この砦では礼儀作法などあってないようなものだから、温泉で誰かに出くわしたところで普段なら気にしない。しかし、王都から来たばかりのご令嬢がいるのだから、今度から多少は気をつける必要がありそうだ。

(温泉に浸かるのは、もう少し遅い時間の方がいいかもしれないな……)


「それは難しいでしょう。王都での彼女の評判はあまりよくありませんし……マルセルが言うように、十日ももたないのでは?」

「逃亡すれば余計に罪が重くなる。彼女自身のためにも、五年は辛抱してもらうしかないさ」

「五年後まで生き延びていられるかどうかはわかりませんがね」

「それは彼女だけじゃない。私たちも同じだよ」

 机に両肘をつき、指を組んで顎を支える。五年後に、この砦がまだ無事である確証などない。すでに敵の手に落ちている可能性がないわけではない。

 むしろ、今のまま状況が変わらなければ――。


 アルセーヌは無言でこちらを見ていた。その瞳に深刻な色が浮かんでいる。

 ジュリアンは「もう、部屋に戻っていい。ご苦労様」と、重くなりそうな空気と沈黙を断ち切って、話を終えた。

「では、失礼いたします」

「ゆっくり休んでくれ」

 アルセーヌが部屋を出て行き、扉が閉まるのを見届けてから、ジュリアンは報告書を机に置いた。


「ジャンヌ・ド・クロエ嬢……」 

 噂で聞いたことしかない弟の元婚約者の公爵令嬢。公爵家で随分と甘やかされて育った我が儘で高慢なお嬢様と聞いていたが、そこまで横柄な態度は見られなかった。それとも、砦に連れてこられたばかりで、緊張していたからだろうか。

 温泉で倒れた彼女のことを思い出す。彼女がうわごとのように漏らした言葉も。

 ジュリアンは頬杖をついて、揺れている灯りの炎を見つめる。


(〝公式〟か……)


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