第二章 1 キュンキュンイベントなんて、必要ない

 このフロタンティアス王国の西の国境に位置するルバントールの砦。 

 その砦に到着した私が連れていかれたのは、砦内にある救護室だ。

 負傷した兵士や、病人などを治療している場所だ。そこで私を出迎えた女性は、血まみれ泥まみれの私を見るなり悲鳴を上げて、治療用の魔法薬をぶっかけてきた。

 重傷患者が運ばれてきたと思ったらしい。勘違いするのも、まあ当然――よね。

 私は魔法薬でびしょ濡れになりながら、苦笑するしかなかった。

 この砦で唯一の医療魔法士をしている女性の名前は、マリー・デュラン。

 私と同じ歳で、左右に分けたふんわりした髪を三つ編みにしているかわいらしい小柄な人だった。 

 というか、この世界って魔法があったんだ――。

 なんて密かに驚く私に、マリーはあたふたしながら言った。

『ごめんなさい、ごめんなさい、てっきり怪我しているのかと! 超強力な魔法薬をかけちゃったの。これ、副作用で目が回ったり、ふらついたりするから、気をつけて!』

 

 そういう大事なことは、できれば早めに言ってほしかったんだけど、その時には私はすっかり目を回して、その場に倒れていた。もちろんすぐに目を覚ましたけれど。

 私が無事なことを確認すると、マリーは何度も謝りながら、私に着替えを貸してくれて、砦の近くにある秘密の温泉のことを教えてくれた。


 温泉と聞いて、私は思わず目を輝かせたのは言うまでもない。この泥と獣の匂いと血とおまけに魔法薬の薬品臭に塗れたかっこうを、今すぐに綺麗さっぱり洗い流してしまわないと、私は自分の匂いで鼻が曲がりそう。


 というわけで、やってきたのは砦の裏道を抜けた場所にひっそりと湧いているまさに秘湯と言うような温泉だ。

「本当に、温泉だぁ~~~~っ!!!」

 私はお湯にそっと手をつけて温度を確かめてから、感動して声を上げる。

 この世界で、温泉に入れてるなんて。ゲーム公式、ありがとう! 

『その温泉は砦の外にあるから、私が教えたことは秘密にしておいて~! それと、大丈夫だと思うけど、時々猛獣が現れることもあるから用心してね。それとそれと、私が砦の外に抜ける道を教えたことも内緒よ! でないと、私……お兄ちゃんに鞭で打たれちゃうから!』 

 マリーが耳打ちしたことを思い出し、私は用心深く周りを見回す。

 誰もいないわよね。それに、一日に二回も猛獣と戦うなんてご免だわ。あの時には剣と短剣があったからどうにかなったけど、さすがの私でも素手で立ち向かえば、命はなさそうだ。


 人の気配なし、獣臭もなし。私は安全確認を終えると、ドレスや下着を脱ぎ捨てていく。泥だらけのブーツも投げ捨てると、そっと足先をつける。お湯の温もりが指先から広がっていくのがわかり、私の顔も緩んでくる。


 源泉掛け流しの温泉を独占できるなんて、なんて贅沢なの! 

 しかも周りは木立に囲まれていて、景色は――まあ微妙だけど、大自然を感じられるような気がする。

 私はタオルで前を隠しながら、ゆっくりとお湯に浸かる。

 岩が周りを囲んでいて、岩風呂の風情。

「はぁ~天国みたい~」

 私はお湯に肩まで浸かると、岩に頭を預けながらうっとりして呟く。

「それはよかった」

 楽しげな声が不意に聞こえたものだから、私はパチッと目を開く。湯気で霞む岩の向こう側で、頬杖をつきながらこっちを見ている人がいた。

 まったく気配がなかったし、入る時には岩の陰で姿が見えなかったから、少しも気づかなかった。

 私はびっくり仰天して、「きゃああああああ~~!」と悲鳴を上げ、お湯の中にドボンッと沈む。でも、すぐに熱さに我慢できず、お湯から顔を上げた。

 びしょ濡れの顔を手で拭う私を見て、その人は笑いを堪えている。

 それは、私をこの砦まで連れてきた美形男子だ。

「あ、あ、あ、あなた! なんで、ここにいるの――――!!!」

 ここは天然の温泉。もちろん、入り口に『男湯』、『女湯』なんて暖簾が親切にかかっているわけがない。だけど、マリーは『混浴よ』なんて教えてくれなかったじゃない!

 

「なんでって……ここの温泉を見つけたのは私だからね。砦でも一部の者しか知らない場所だよ。それを君が知っているということは、マリーから聞いたのか」

 彼はクルッと背を向ける、岩の向こうに隠れてしまう。

 私はそんな彼の声を、ドキドキしながら聞いていた。し、心臓に悪い――。

 もちろん、湯気と岩のおかげで、見えてないはずだけど。

「それは……ひ、秘密よ!」

 マリーから聞いたなんて言えば、彼女が怒られるかもしれない。

 私も岩を背にして答える。彼はすぐに上がるつもりはないのか、のんびりとお湯につかっている。だから、私も上がるわけにはいかない。

 タオル一枚しか身にまとっていないのに、こんな姿、さらせるわけがない。

 

 も、もしかして、これが胸キュン――イベント!?

 ヒロインのレリアがこの砦にやってくることがあった時に発生するはずのイベントが、思いがけず発生しちゃったのかもしれない。

 あり得ない話ではない。だって、このゲームは『キュンキュン❤ラバーズファンタジー』だ。キュンキュンイベント盛りだくさん。

 こんな時に乙女ゲームの本領を発揮されても困るのよ。それにそんなイベント、レリア限定のはずだ。

 

「クロエ嬢……クロエ嬢?」

 名前を呼ばれていることに気づいて、私はバッと顔を上げる。その頬はすっかりお湯でホカホカになっていて赤くなっていた。

「は、はい、なんでしょう!」

「弟のジルベールは元気にしていたかい?」

「ええ、殿下ならお元気でしょう」

 今頃、王宮でレリアと幸せに暮らしているわよ。はぁ~~。

 私はため息を吐く。

「そうか……もう何年も会っていないし、連絡もとっていないから、どうしているのかと思ってね。成長しているんだろうな」

「それはもう、立派なイケメン男子に……」 

 私は「え!?」と、思わず岩の陰にいる彼の方を振り返る。

「お、弟――――っっっ!?」

  

 私は唐突に思い出した。

 この砦には王子がいる。ジルベールの兄で、第一王子の『ジュリアン・モントルイ』。ということは、この人がそのジュリアン王子。

 やけに美形だと思ったら、やっぱり隠しキャラの一人じゃない。お湯にのぼせたせいかクラクラして、体が斜めに傾く。

「クロエ……嬢……クロ……エ嬢!」

 焦った声とお湯をかき分ける音が聞こえてきて、沈みかけていた私の体をジュリアンが抱き上げる。その手を私は無意識につかんでいた。


「どうか……どうか、伝えて……公式に重大なバグが発生していると……」 

 これは私のイベントじゃない。レリアの時に発生するイベントのはずだから。

 私はガクッとなって意識を失ってしまった。


 

 

 



 

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