第一章 6 私は生き延びたい

 日記には、古い血の染みの跡がついていた。

 私の前任――という言い方もおかしいけれど、とにかく私の前にジャンヌ・ド・クロエだった〝誰か〟は、この世界にいない。

 彼女の中身は消滅し、そしてかわりに私がこの世界に飛ばされてきた。もしかすると、これって死ねばゲームオーバーってことで、もとの世界に送り返されるんじゃない?


 だとしたら――っ!

 猛獣の大きな体の下に滑り込んだ私は、地面に片手をついて素早く立ち上がり、兵士のそばに落ちている剣をつかんで足の向きをクルッと変えた。

 猛獣がこちらを向くより先に剣を握り締め、斬りかかっていく。


 この世界で死ぬことを、怖れる必要なんてない。むしろ、ピンチは大チャンスじゃない。私は爪でえぐられそうになる前に素早くかわし、猛獣の足を腱を正確に断ち切った。

 体勢を崩した猛獣が唸り声を上げながら倒れるのを見て、私はすぐに次の攻撃に映る。動きが止まっている今、仕留める!


 前に回り込んで首を狙ったけれど、骨に当たったようで剣が硬い音と共に折れて弾け飛んだ。なにこの柔な剣! 

 私は剣をすぐさま持ち直して猛獣の首に折れた剣を突き立てた。獣なんだから、急所同じはず。


 首に深く突き刺さった剣を、その大きな胴体を蹴りつけながら引き抜いて飛び退いた。けれど、吹きだした返り血のせいで、私は全身血まみれだ。

 リボンやフリルのついているピンク色のドレスも紅に染まり、髪や顎から滴が垂れてくる。獣臭いし、血生臭い。ベタベタするし気持ち悪い! 

 なんて、言っている暇もなく、もう一匹が私にターゲットをかえて、突進してくる。


 死んでバッドエンドなら、戻れるかも――なんて、ただの憶測。

 それが本当かどうかもわからない。この世界で死んで消滅したら、どっちの私もおしまいって可能性だってある。

 そんなわずかな可能性に期待をかけて、『ちょっとばかり試してみよう』なんて思えるはずがない。


 そもそも、私は負けるのが大嫌いだ。いつだって、バトルは真剣勝負。

 相撲の取り組みみたいに、全力体当たり。どんな強敵だって、難しい局面だって、挑んで勝利をものにする。『今回は相手が悪かったよねー』なんて、簡単に諦めて、自分を慰めて満足しているなんてできない。


 そうだよ――。今回のバトルゲームの大会の決勝戦だって、互角のチームだった。全員が一丸となって向かえば、勝つことはできていたのに。

 それなのに、途中で連携が乱れて、その隙を突かれて崩された。


 大会の後の反省会でも、みんなしょうがないって笑っていたけれど、私は納得いかなかった。でも、もうちょっと必死でやってよなんて言えなくて、黙ったままでいた。そんな私を、チームのメンバーはきっとつまらないやつって思っただろう。

 いつもそうだ。溝ができて居心地が悪くなり、自分から離れてしまう。


 私はドレスの袖で顔についた血を拭い取り、息を吐き出す。

 近くに倒れている荒くれ者のおじさんが握り締めていた短剣を蹴り上げ、回転するその短剣の柄をつかんだ。

 私たちが護送される時、手荷物は全て検査された。だから武器になるようなものは持ち込んでいなかったけれど、おじさんはどこかにうまく隠し持っていたみたい。

 

 折れた剣と、その短剣を両手にしっかりと握り、私は血だまりのできた地面を蹴って飛び上がる。

 眼球を裂くと、魔獣は咆哮を上げて闇雲に暴れ始めた。

 匂いでわかるのか、私が後ろに回ってもすぐに体の向きを変えて襲いかかってくる。それを何度かかわしているうちに私の息が上がり、動きが鈍くなってきた。


 このジャンヌ・ド・クロエ嬢は性格はともかく、生粋のお嬢様だ。

 幼い頃から、礼儀作法に、立ち居振る舞い、貴族の令嬢としての教養はしっかりと厳しく教え込まれているだろうけれど、武術で鍛えているわけではない。

 それどころか、出かける時はいつも馬車で、一日のほとんどをお屋敷の中で過ごしている。ダンスは踊れるだろうが、猛獣と格闘するほどの体力も筋力もない。もちろん、その必要なんて今まで少しもなかったからだけど――。


 だから、体が思うように動かない。これって、本当にゲームなの?

 まるで現実のようだ。心臓がバクバクして、汗が噴き出してくる。剣を握る手も小刻みに震えていた。お願いだから、もう少しだけ動いてよ。そうしないと、この場にいる全員まとめて猛獣の餌食だ。


 あのベルナルド三兄弟とかいう荒くれ者のおっちゃんたちに何の情も湧かないけれど、見捨てるのは寝覚めが悪すぎる。

 それに、私は自分一人が助かろうなんて、考えが一番嫌いだ。倒れている兵士は自分の仕事を全うしているだけで、何の罪もない。


 私は血で滑りそうになる柄を握り締めて剣の先を猛獣に向ける。

 大口を開けて飛びかかってきた猛獣の顎に折れた剣を突き立てると、短剣で眉間を狙う。吹き出した血を浴びながら、着地した私は地面を転がって起き上がった。


 もう気力も体力も限界で、荒い呼吸を繰り返しながら水たまりに膝を突く。

 雨が降り始め、私の体についた血を洗い流してくれるのが気持ちよかった。

 猛獣を見ると、二匹とも倒れて動かなくなっている。その周囲に血だまりが広がっていた。


「や……やった……私……生きてる……」

 私は掠れた声を漏らして、剣と短剣を落とす。

 あの猛獣、復活とかしてこないよね? 

 お願いだから、そんな敗者復活戦はやめてよ。

 私は深く息を吐き出し、その場に座り込んでうな垂れた。


 やっぱり、この世界は全然乙女ゲームじゃない。

 乙女ゲームで、こんなハードなバトルイベントが発生するはずがない。

 それとも、ヒロイン以外には優しくない世界ってこと? 

 公式、それってあんまりでしょ。悪役にも慈悲は必要よ!


「なんて……文句言ってても、仕方ないよね……」

 私は大の字に寝転がってぼやく。雨に打たれたまま、目を閉じる。

 とりあえず、ここで猛獣に襲われ死亡するなんて無慈悲なシナリオだけは回避したんだもの。上出来よ。そのことに満足した私は、ニンマリを笑みを浮かべた。




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