Episode 73 - 臨機応変の壁
「――教官。ターゲットを発見。これより救命活動を開始します!」
『了解。用心してかかれよ。そこから先は、お前たち自身で考えて動け』
後部座席で涙幽係数モニターを監視していた華南が通信でそう告げ、運転席の一季の肩を叩いて報せてくる。
「一季ちゃん、あっちの地下鉄入口に駐めて。下から反応が出てる」
華南が指差した先、そこは立体映像で忠実に再現された、どこにでもありそうなありふれた階段が地下へ続いていた。今回の状況は休日の設定なのか、それなりの透けた市民の姿が見て取れる。
「え、でも……」
ブレーキを掛けつつも、一季はその指摘に眉尻が下がるのを禁じ得ない。
「ぜんぜん匂わないよ?」
「……あのね、一季ちゃん。これは訓練だから、実際の涙幽者はいないの」
「あっ! そっか!」
優しく諭してくる華南の言葉に、一季は遅れて合点がいった。今は実習訓練の最中で、涙幽者は教官の誰かが〈スペクター・キット〉を着用してあたっている。自分の鼻が涙幽者特有の感情の匂いを感じないわけだ。
「フッ。そういうとこも素敵だぜ、マイ・ダーリン」
「テッド、おまえぇ……!」
「はい、ストップ。わたしとこの馬鹿が先行するから、二人は市民の避難誘導にあたって。パニックが広がらないように、静かに冷静に――」
「――うん! わかった! じゃあ、
「一季ちゃん、ちが――」
華南の制止は耳に入らず、ダッシュボードに並んだ点灯スイッチを一季は素早く叩いていた。すかさず、緊急車輌であることを知らしめるサイレンがけたたましく鳴り響き、周囲を蒼い光が照らし出した。
「っしゃ、オレが誘導するぜっ!」
「勇義! パニック状態になった市民は危険。……って、もう! 行くよ、テッド!」
「あれ……? で、でもっ、わたし、テキストのとおりに……」
「Oh, マイ・ダーリン。キミは間違っていないぜ。ただ、こういうときは、サイレントな出動がよかったな」
助手席から飛び降り、一目散に駆け出した兄の後を追って華南とテッドが続く。去り際のテッドの指摘でようやく、一季は自分が手順を厳守したことに気が付き、「どうしよ……」と頭を抱えてしまった。
救命活動の現場に到着次第、
だが、実際の現場では、華南の言う通り、そのことが裏目に出てしまうことがある。一季も頭ではそういう応用があることを理解はしているのだが、行動が追い付かない。
(だってテキストには……っ!)
一言一句、暗記している頼りの教科書をもう一度、思い浮かべるが、やはりそこには『現着後、速やかに
浅い自分の呼吸音を聞きながら、一季はまるで彫像のように体を動かせなかった。
† † †
「……やっぱり、か。このくらいの変化なら、もしやと思ったんだが……」
訓練司令室のモニター、そこに映った固まっている教え子の姿を認めて、熱田はギリッと奥歯を嚙んだ。
本来、実習の内容は完全にランダムでなければならない。訓練生の得手不得手に合わせるなど、もし露見でもした際には一大事になる。
その危険を冒してでも、熱田が実習に手を加えた理由は一つだけだ。
「座学は抜群なんだ。この応用力さえ、どうにかなればな……」
応用が利かない。
それが、階上一季における唯一にして最大の弱点だった。
一季の記憶力は、あの首席候補の正能を軽く凌駕している。威療士養成コースに編入した半年後には既に、4年分の
普通なら、それで特待生としてカリキュラムを短縮し、いち早く実習過程に遷り、飛び級卒業も不可能ではない才覚だ。
事実、熱田は意気揚々と一季を特待生に推し、一日だけとはいえ、認められた一季は上級生に交じって実習に臨んだ。
「……まさか〈ユニフォーム〉の袖が破れただけで、まったく動けなくなるなんてな」
ツキがなかった、というにはさすがに無理があった。
たまたまその実習の不確定要素が、一季に割り振られ、その内容が『ユニフォームの破損』だった。当然、普通、それくらいで実習が不可能になることはない。修繕を欠かさないとはいえ、〈ユニフォーム〉の損耗は日常茶飯事だからだ。
だが、袖の破れた〈ユニフォーム〉に気が付いた一季は、文字通り、固まってしまった。「出動前の点検が終わりません」と言って、そこから全く先に進めなかった。
それでは特待生として認められるはずもなく、アカデミー史上最短という不名誉な記録を携えて一季は一般訓練生に戻った。以来、熱田や友人たちの協力を得て、幾度となく応用の練習をしてきたのだが、気付けばもう、最終学年も終盤に差しかかっていた。
「どうすりゃいい……。どうすりゃあ、一季の苦手を克服できるんだ……」
自問自答し続けてきた答えの出ない問いを繰り返しながら、熱田はモニターへ目を戻す。
† † †
フロントガラス越しに四方八方へ蜘蛛の子を散らす
「そん、なっ……?!」
未だ車中から出られない一季のイヤコムには、避難誘導に苦労する勇義たちの焦りの声が届いていた。ほとんどの市民たちが誘導に従わず、ゆえに本来なら優先しなければないはずの、涙幽者の捜索まで手が回らない。
(わたしの役立たず……っ!)
これが実際の救命活動だったならと、思わずにはいられなかった。
“フェイク”などではなく、本物の涙幽者がいたなら、自分は役に立てる。得意の嗅覚が鋭く涙幽者の反転感情を嗅ぎ取り、一目散に向かうことができる。
涙幽者が相手なら、考えなくていい。
〈ドレスコード〉は――涙幽者を止めるのは、シンプルだ。その懐に入り込み、牙を突き立ててやればいい。
それなら大嫌いな『応用』など考えるまでもなく、体が自然に動いてくれる。――ちょうど、あのときのように。
『――一季ちゃん! 負傷者を〈ビークル〉に運んで!』
「わ、わかったっ!」
定まらない思考へ、華南の指示が伝わり、一季はブルブルっと頭を振って自分を鼓舞する。訓練だとしても、今は固まっている場合ではなかった。
「だ、だいじょうぶですかっ?!」
〈ビークル〉から飛び降り、〈ギア〉でスキャンを始めると、予想以上に赤のマークが多かった。まずは倒れ伏している手近な負傷者に近づいて、声を掛ける。
「……胸が、痛いんだ……」
「ゆっくり呼吸してくださいっ。いまスキャンしますから!」
擦れた声で痛みを訴える負傷者の腕には擦り傷が見られ、着衣にも汚れと破れがあった。その状態から考えられる負傷の程度を頭にリストアップしつつ、一季はハンドサインを結んで負傷者の
【警告。心停止。直ちに蘇生処置を推奨】
「――っ?!」
映像が映し出されるより早く、〈ギア〉に警報が浮かび上がった。一秒に満たない動揺から気を取り戻した一季は、すぐさま「心マ開始しますっ! チャージ!」と〈ギア〉へ指示を飛ばしつつ、両手を組み合わせて負傷者の胸骨圧迫を開始する。触覚フィードバックホログラムから、固い肋骨の感触が返っていた。
「お願いっ……もどってきて……っ!」
学んだとおりのリズムに則って、胸骨圧迫と〈グローブ〉に内蔵された除細動を繰り返しながら、一季は負傷者に声を掛け続ける。体力が激しく削られ、絶えず力を入れている腕は軋みに悲鳴をあげていた。汗が頬を伝うが、たとえ腕が折れようと処置を止めるつもりはなかった。
【心静止。処置の中止を推奨。蘇生確率5%未満】
(まだ……っ!)
無感情な告知が〈ギア〉に浮かび上がっても、一季は手を止めようとしなかった。信じないとばかりに〈ギア〉を脱ぎ捨て、なおも腕を上下に動かす。
『――実習訓練終了!』
イヤコムに鋭い声が入り、同時にホログラムの市民たちが一斉に動きを止めた。ほとんどの立体映像が霧散していく中、マーカーの付いた場所だけが、まるで時間が止まったように維持される。
『訓練生4名、集合!』
「カズ……!」
声は、聞こえていた。
触覚フィードバックが消え、一季の手が宙を切って地面へ突き立てられる。〈グローブ〉越しに衝撃が伝わり、鈍い痛みが走ったが、それでも手を止められない。
「聞こえなかったか、訓練生・階上一季。訓練は終了と告げたはずだ」
「……まだ……負傷者が……」
「その負傷者は心静止している。つまり、死亡だ。貴様は、救えなかったうえに遺体を破損させるつもりか?」
「……っ」
「さっさとついて来い」
架空の人物を精緻に再現したホログラムは、訓練の終了に伴い、顔のない無機質な検証用の人体模型に変化していた。
苦しげに訴えてきた声が、一季の耳にこびりついて離れなかった。
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