Episode 74 - 教科書と現実

 都市部の地下鉄駅周辺を再現した環境ホログラムが消失し、一帯が殺風景なドーム状の空間へ、回帰する。

 ほとんど音も立てずに開閉をはじめたドームの天井から、澄んだ秋空が覗き、併せて耳に届く潮騒の音が、ここが海上であることを伝えてくる。

 訓練フィールド『B地区』のその中央に集まった面々を見回し、曲線美が美しい体の輪郭ラインがくっきり表れるグリーンのボディスーツを纏った長身が、紫紺の長髪をなびかせて険しい声で問う。

「――チームリーダーは?」

「オレです! 早瑛希さえき教官」

「では訊こう、階上勇義訓練生。本出動案件の内容は?」

「涙幽者の目撃通報を受けたので出動しました!」

「通報の内容は?」

「通報者の通信が切れたので詳細はわかりません!」

「ふむ。通報者が巻き添えを食らうことは、残念ながら少なくないからな。ではなぜ、が出ている?」

 細められた教官の双眸が、地下鉄入口の階段へ向けられる。微動だにしないホログラムの上に浮かんだ黒いマーカーが、『推定死因:圧死』の分析を付記していた。

(一人だけじゃなかった、の……?)

 直立不動を保っていた一季の体が、早瑛希の視線につられて振り向き、さらなる犠牲者を目の当たりにして、膝から力が抜けそうになった。

 まったく気が付かなかった。

 目の前の負傷者一人のことで精いっぱいで、他にも犠牲者が出ていたことに、今の今まで一季は気が付かなかった。

「パニックを起こした市民が、階段に殺到したからだと思います! 将棋倒し、ってやつですかね。うまく誘導できませんでしたので!」

「明瞭な返事は感心だが、胸を張って言うところではないな。ではなぜ、避難誘導が難航した?」

「……あの、早瑛希教官、それはわたしの――」

「――貴様に発言は求めていない、階上一季訓練生。私は今、チームリーダーである階上勇義訓練生の報告を聞いている」

 深い茶の双眸をこちらへ向けもせず、早瑛希がピシャリと言う。それだけで、一季は踏み出しかけた足が止まり、うつむく他なかった。

 そんな一季を見かねてか、同じく直立不動だった華南が正面を見据えたまま、声を挙げる。

「教官、説明させてください――」

「――阿座上訓練生。貴様と正能訓練生の実習単位数は、とうにライセンス取得試験受験可能数に達している。熱田教官からの報告では、階上訓練生の補習を実施するにあたって、貴様ら二名の自主鍛練と、重なったそうだな」

「はい、熱田教官の許可を得て合同参加させてもらいました」

「よろしい。別チームと協働する機会の多い威療士にとって、その心構えは称賛に値する。本実習は終了した。貴様と正能は下がってよい」

「しかし教官、一季ちゃんは……」

「行くぞ、阿座上」

 なおも説明しようとしてくれる華南の腕を引いて、威療士式の敬礼をしたテッドが背を向ける。

 それが呆れや苛立ちからの行動ではなく、自分を気遣っているゆえのものであるくらいは、一季にも察することができた。

「階上勇義訓練生。市民がパニックを起こした原因をどう考える?」

「それは教官の“変装”が、むちゃくちゃおっそろしかったからではないでしょうか!」

「お兄ちゃん!?」

「鋭い考察だ。涙幽者とは、己が飢えを満たすためだけに人を喰らう脅威であるからな。ホログラム相手であろうと、加減はせん。涙幽者の私は、泣く子も大泣きすると評判だからな」

「きょ、教官!?」

 一切の躊躇いなく言ってのけた勇義の発言にヒヤヒヤした一季だったが、意外にも、早瑛希は真顔で首肯した。どことなく、表情が読めないその顔が誇らしげに見えるのは、気のせいだろうが。

「だが、本実習の状況に鑑みていえば、的確とは言えん。なぜなら、地下構内で涙幽者を目撃した市民は全員、私が喰らったからだ。無論、それだけではない。これを見ろ」

 腕のコンソールを操作し、早瑛希が宙に映像を浮かび上がらせる。それは構内へつながる階段を映した監視映像で、ごく普通に市民が往き来していた。タイムスタンプへ目をやると、どうやら到着する直前の映像らしい。

 そこへ、唐突に伝わった、けたたましいサイレン。

 それを皮切りに、市民が一斉に駆け出す。

 パニックの原因は、明らかだった。

「階上一季訓練生」

「は、はいっ」

 監視映像を切った早瑛希が、今度はその無感情な双眸をこちらへ向けてくる。

「貴様が運転手を務めたな。レンジャー・ライトの操作権は運転手にある。だが、緊急灯を使用することで周囲の緊張が高まるとは考えなかったか?」

「わたしは、その、教科書のとおりに……」

「質問の答えになっていない、階上一季訓練生。貴様らは、涙幽者に到達することすら叶わなかったばかりか、二次災害による死傷者を出した。これがシミュレータでなければ、貴様は救命どころか命を奪っているぞ。それも、教科書が原因か?」

「早瑛希教官! リーダーはオレです。指示が出せなかったオレの責任です。ですから――」

「――それがなんだというのだ?」

「っ――」

 ぞっとすほど冷たい声だった。

「責任の所在が何だ。チームリーダーに責任を取らせれば死者が蘇るのか? あるいは、チームリーダーの命と引き換えなら彼等が生き返るのか? どうなんだ!」

「教官……」

「……よく肝に銘じることだ。失われた命は、けっして、二度と戻らん。まして、命を救うことが使命たる威療士において、命を奪うなど言語道断だ」

「……はい。すみません、教官」

「私に謝ってどうする。謝罪の相手なら、死傷者のほうだろう。できるものならばな」

「早瑛希教官。言いすぎですよ! オレたちのせいには違いないですけど、だからってそこまで言うことはないでしょう!」

 突っかかる兄を、引き留める気力も一季にはなかった。早瑛希に言われた言葉が頭の中をぐるぐると回り、頭痛がひどくなる一方だった。

「……言うまでもなく本実習は不合格だ。ログを検証し、原因と改善点をレポートするように。期限は、明日の正午まで」

「ちょっと待ってください、教官! 今夜は夜間実習です。もう少し時間をください!」

 早口で言い終え、背を向ける早瑛希。

 引き留めようとした兄の腕を、今度は一季がつかんで止め、代わりに早瑛希の背へ言葉を投げかける。

「――わかりました。レポートは明日までに出します」

「カズ……?」

「よろしい。以上だ。解散」

 振り向きもせず、立ち去っていく紫紺の長髪を、一季はズキズキと痛む頭を押さえながら見送った。

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