Episode 72 - 炎髪教官の苦労

「――階上妹のやつ、また前方確認を怠ったなっ! 空間把握が鋭いからって、油断するなとあれほど言っただろうが……。通行者がいたらどうすんだ!」

 訓練司令室のモニターを眺めて、熱田照彦アツタ・テルヒコ教官は、教え子の無茶な行動に、燃え立つ炎ような自身の赤毛をガシガシと搔いた。

 そのぼやきは、制限速度を軽く超過して疾駆する教え子たちの〈ビークル〉には届かない。今日の訓練は、いわば小テストのようなもので、教官は同行せず、訓練生自身による自主性を見る試験だ。だから熱田はあくまで、オペレーターの役割に徹するのが規則だ。

 その割にはずいぶん、叱咤を入れてしまっていたが、そんなことを気にしている余裕は熱田にはなかった。

「集中してくれよな、階上。お前らが卒業できるかは、この2週間の成績にかかってるんだぞ」

 熱田の焦りの原因は、そこにあった。

 階上兄弟を始めとする第79期生たちは、既に4年の基礎学習を済ませている。

 アカデミーで過ごす彼らの最後の一年は、そのほとんどが実習や今日のような実践訓練に費やされるカリキュラムだ。

 これまでに学んだ知識を使い、どれだけ臨機応変に実践できるか。

 威療士としてそれを達成できる水準にある者が、威療士ライセンステストに臨むことが許可される。慣習に従ってアカデミーではこれを『卒業』と呼び習わしていた。

 そんな教え子の卒業の可否を決める権限を、熱田は持ち合わせていない。正確には、上申するのが精いっぱいであり、最終決定はアカデミーの教授陣による審査によって下される仕組みだ。

 と、背後から濃厚なコーヒーの香りが鼻を突いて、熱田は眉をひそめた。

「――いいのかね、熱田君。同期の最優ペアと落第ペアを組ませて? 見てみたまえ。〈ユニフォーム〉もロクに着れておらんではないか。あれでどうやって威療士ライセンステストを通過するというのだね?」

「……阪堂教頭。階上兄妹は落第と決まったわけではありません。それと、いま実習中なんですが」

 通常、訓練生の実習は、担当教官が訓練司令室のブースに詰めて監督評価する。

 日程や条件を“偽涙幽者フェイカー”役の教官と打ち合わせ、機密事項扱いで学院アカデミー上層部へ計画を届けるルールだが、原則は担当教官が全責任を負う。

 今、ブース内の立体モニターを睨み付けていた熱田は、ノックもなく入ってきた禿頭のふくよかな気配に、困惑と迷惑感を全身から放出しつつ、答えた。

「知っとる。であるから、様子を見に来たんじゃないか」

「……はあ」

 熱田の『出ていけ』オーラを全身を受けているはずだが、濃いコーヒーの香りを漂わせるマグカップを啜りつつ、平気でモニターを覗き込んでくる。この教頭の才能が、まさに“空気を読まない”、だ。

「そいで、どうなんだ、熱田君? この落第生はさっさと留年させるべきではないのかね」

「教授会まで2週間あります。まだ落第と決まったわけではありません。それに、外部実地研修の評価次第では、充分にライセンスを取得できる可能性が残っています」

「ふん。この成績で研修を引き受けてくれる威療士チームがいると、本気で思うておるんかね、熱田君?」

 教え子のことをあからさまに貶されて、良い気がするわけがなかった。ズルズルッとカフェインの過剰摂取を続ける教頭を、今すぐにでもブースから蹴り出したいし、何なら、実習中はブース内が録画されているから今の発言を上申してやりたい。

(……落ちつけ。阪堂も教授会のメンバーなんだぞ。ここで楯突けば、階上たちに影響しかねない)

「まあ、確かに階上兄はちょいとばかし空回りする癖があるのは否めませんが……」

 シートの肘掛けを握り締め、熱田は培った年齢によって生来の気性を抑え込む。全ては、訓練生のためだ。

「現場で空回りなんぞされて死者でも出そうもんなら、わがアカデミーの栄光に泥を塗ることになりかねん。はっきり言っとくが熱田君、私は教授会で反対票を投じるぞ」

「……あなたの訓練生たちでもあるんですよ? 自分の生徒を信じてやれないんですか」

「信じる? はっ! 成績がはっきり出とるもんに奇跡を乞えとでも言うつもかね? わがアカデミーは、この国唯一の威療士訓練校であり、この国の威療の将来を一手に支えとるんだ。努力せん者に手を掛けてやるほどの余裕はありゃせんよ」

「決めつけないでもらえますかね、教頭。普段、ロクに授業を見もしないあんたと違って、彼らの努力は、おれが知っている。これ以上、おれの生徒を侮辱するのはやめていただきたい」

「おや、この私を脅すつもりかね? あの気紛れ学長が、元威療士の君を採用した理由は知らんが、万年不在の学長がいないうちは、この私が人事権を持っとることを忘れんでほしいな、熱田君」

「知っていますよ。――

 気づけば教頭を見下ろすように立っていた。元より上背がある熱田と阪堂には、頭ひとつ分以上に身長差がある。こんな相手に自分が縮こまっていたと考えるだけで、熱田は己の不甲斐なさに腹が立った。

「ほぅ。ならばどうするつもりかね? 君の大事な大事な生徒を放りだして、職探しでもするのかね」

「彼らが――階上兄妹が留年することになったときはそうしますよ」

 この言葉はさすがに予想外だったらしく、ぎょろっとした阪堂の目がさらに見開かれた。細い線のような眉が続けてひそめられ、「わからんね。なぜそこまであのペアに肩入れする? 君も、一応は多くの訓練生を見てきたベテランだと思うとったが」と、疑問を口にしてくる。

 そのようなことも理解できないから、あんたは教官よりも管理職が性に合うんだ。――という言葉は腹に飲み込み、熱田は、モニターのほうへと目をやる。現場に到着した一向が、涙幽者を探しに班を分けるのが見て取れた。

「理由なんてないですよ。階上兄妹も、正能も阿座上も、そのほか大勢の生徒と変わらない。彼らは威療士になるために日々、努力している。だったらおれたち教官が、それを後押ししないで、どうするんですか」

 本音が半分、口にしなかった理由が半分、といったところだった。

 阪堂は自分を"元威療士"と評したが、正確にはだ。

 過酷な救命活動の現実を目の当たりにして、若かった熱田は、持ち合わせていたはずの救命への情熱も、威療士への憧憬も、砕け散ってしまった。平たく言えば、怖じ気づいたのだった。

 だから、あの頃の自分に学生たちを重ねてしまうのかもしれない。

「ふん。君が辞めるのは勝手だがね、くれぐれも他の教官や訓練生には迷惑をかけないでくれたまえよ?」

「ご心配なく。アカデミーには泥を塗りませんよ、阪堂教頭」

 その言葉に満足したのか、もう一度だけ鼻を鳴らした阪堂が部屋を辞する。あとに残ったのは濃いコーヒーの匂いと同じ、纏わり付くような徒労感だけだった。

『――教官。ターゲットを発見。これより救命活動を開始します!』

「了解。用心してかかれよ。そこから先は、お前たち自身で考えて動け」

 今回の想定シチュエーションには、オペレーターの不在も含まれる。ゆえに熱田が口を出すことは許されない。ここからは、もう彼らが自分たちの判断で動くしかない。

「……がんばれってくれよ、お前たち」

 通信を切ったマイクに向かい、届かない激励の言葉をこぼす。それくらいしか、今の自分にはできることがない。そのことがまた、歯がゆかった。

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