Episode 30 - 母の決意
――トーマス! あの子をなんだとおもってるの! あの子は、貴方の仕事道具じゃないのよ!!
あんな剣幕の夫人を目にしたのは、初めてだった。
タイラ氏の表情が明らかに硬直し、幼いトゥルーは両親の対立を察して今にも泣き出しそうな顔をしていた。
ご夫妻の仲裁をすべきだと思ったが、夫人はフォリナーとトゥルーをビークルに連れていくよう、ワタシに指示した。夫人は、二人を連れて家を出るおつもりだった。
それまで沈黙を貫いていた氏は、夫人の意図を察したらしく、そこで口論が始まった。
口論を、トゥルーに聞かせるわけにはいかない。
それだけは確かだったから、ワタシは、部屋を出ると告げた。気持ち的には夫人に従いたかったが、ワタシの雇用主はタイラ氏であったし、幼い姉弟にとって父母が引き裂かれるとはどれほどの痛みを伴うのか、経験上知っていた。
だからワタシはただ、部屋を辞するつもりでいた。
――次の展開は、まさに一瞬だった。
血相を変えたタイラ氏が、ワタシに向かって突進し、トゥルーを取り上げようとした。
それを見た夫人の、聞いたことがないような悲鳴が耳をつんざいていた。
ワタシやタイラ氏が状況を呑みこむよりも速く、トゥルーが泣き出したのは、母と子の絆ゆえのことかもしれない。
振り返ったワタシとタイラ氏の前で、夫人は濁った大粒の泪を流し、いつも手入れを欠かさなかった肌を、針金のような毛が覆い尽くしていた。すぐさま夫人の周囲を炎が渦巻き、掃除が行き届いた廊下にまで、瞬く間に広がっていった。
ワタシはとにかく怖かった。すぐにこの場から逃げ出したくて、トゥルーを抱えたまま玄関を目指した。
――だが、鋭い痛みを感じて動けなくなった。見下ろすと、樹の枝のようなものが胸から突き出ていた。
――ムスコヲ、返セ。
その声を最後に、ワタシの意識は途切れた。
16.
「……ちょっと待って。トゥルーのお母さん……ミス・タイラが涙幽者? さっき会ったとき、そんな気配はなかったわよ」
質問を差し込んだティファニーに対し、グリィ89がわずかに眉を吊り上げる。その表情が『わからんやつだ』と言っているように見えて、ティファニーは少しだけ苛立った。
(なによ。こんな表情豊かな涙幽者、はじめて見たし。……リーダーたち、気づいてくれないし)
さきから傷を押さえた指で、〈ユニフォーム〉のセンサ部を叩き続けているが、くぐもった音が部屋の外に聞こえるだけで一向にチームメイトの気配は感じない。
〈ユニフォーム〉の所有者がティファニーに登録してある以上、負傷の通知はチームに行き届いているはずだった。それでも誰もやってこない事実に、ついティファニーは思考がネガティブになってしまう。
(グリィ89の話を聞くかぎり、検知した涙幽者はトゥルーの父親にちがいない。まさかリーダーたち、彼に……ううん、だめ。そう簡単にやられたりしないわよ。……エド)
フレッシュグリーンのヘアカラーをした、気弱な相棒の顔が思い浮かんだ。
チームの誰より臆病なくせに、救命活動となると別人のように頼りがいのある相棒。
ティファニーが初めて、勇気を振り絞って打ち明けた過去を、笑いも同情もせずに聞いてくれた相棒。
ずっと傍にいるからと、はにかみながらもしっかり言ってくれた相棒。
「熱ガアルノカ? 頬ガ赤イガ」
「ち、ちがうわよっ! 出血が止まって、血の気がもどっただけ。……それより答えて。トゥルーのお母さんはどうなったの? どうして平気だったの?」
「レンジャーニモ、気ガ利カナイ者ガイルンダナ」
「ちょっとどういう意味よ! さっきからさんざん、私のこと扱き下ろしてるし、レンジャーレンジャーって、知ったふうな口で!」
「知ッテイル。ワタシノ夫ハ、レンジャーニドレスコードサレタ」
「……っ。ごめん。私、知らなくて」
「モウ7年ダ。一日タリトモ、忘レタコトハナイ。……ダガ、レンジャーニハ、感謝シテイル」
「……えっ」
「最初ハ、憎ンダ。ワタシノ愛スル相手ヲ奪ンダカラナ。ダガ、夫ガ安定シテ面会ヲ許可サレタトキ、思ッタ。生キテイレバ会エル。タトエ、二度ト言葉ヲ交ワスコトハデキズトモナ」
そう静々と、グリィ89の白濁した双眸がティファニーの目を見つめて告げた。それは紛れもなく、これまでも見てきた理性を失った涙幽者の眼。
けれど、その奥にヒトらしい温かな光が見えた気がして、ティファニーはギリッと奥歯を嚙んだ。
(……これじゃあ、ドレスコードなんてできないじゃない)
押し黙ったティファニーをしばし見つめ、ふいにグリィ89の巨躯が立ち上がる。緊張感がティファニーの体を包んだが、グリィ89は周囲を見回すような仕草をした後、硬い声で続けた。
「タイラ氏ノ哀シミヲ感ジル。オマエノレンジャー仲間ト、オ会イニナッタナ」
グリィ89の言葉を裏付けるように、くぐもって聞こえていた物音が大きくなり、時折、地響きのような揺れが続いた。
「ぐりぃ……?」
「ダイジョウブ、トゥルー。……レンジャー。頼ミガアル」
「ティファニー。私、ティファニー・ロドリゲスよ」
「ソウカ。レンジャー・ロドリゲス。夫人トフォリナーハ、ゴ無事ナンダナ?」
「そうよ。私らで船に乗せたから」
「モシ、夫人ガ落チ込ンダラ、ドウナル?」
骨張った足元に縋りついているトゥルーの頭をそっと撫でつつ、グリィ89が尋ねてくる。トゥルーに気を遣っているのは確かで、要するに『次に涙幽者化した場合』のことを尋ねているのだろう。
「わからない。正直に言うとね。私らレンジャーに要請があったなら、そのときは仕事をする。……だけど、約束する。トゥルーとフォリナーを悲しませたりしない。どうしたらいいか、いまはわからない。でも私、考える。考えて、ぜったい悲しませない方法を見つける」
「ダガ、レンジャーノ仕事デハナイダロ?」
「私ら威療士は、どんな過酷な状況だって命を救ってきたのよ? ついでに笑顔にするくらい、造作もないわ」
「フン。頼モシイナ」
笑うように牙を覗かせたグリィ89が、膝立ちになってトゥルーと目線の高さを合わせる。それでも上背があるぶん、自然とトゥルーはグリィ89の眼を見上げる恰好になった。
「トゥルー。モウ、誰カヲ人形ニ変エテハイケナイ。イイネ?」
「でも、パパが、ぐりぃやママが怒ったときは、やってって」
「イイカイ、トゥルー。ソレハモウ、ダイジョウブ。ワタシハ、モウ怒ラナイシ、他ノミンナモダ。ママト、パパモダ」
「ほんとう?」
「ワタシガ、噓ヲ言ッタコトガアルカイ? コノレンジャー・ロドリゲスト行ッテ、ママとフォリナーニ会ッテキナサイ」
「……ねえ、グリィ89。あなた、もしかして――」
「――ロドリゲス。ユニフォームヲ着ロ。病ミ上ガリデスマナイガ、走ッテモラウコトニナルカラナ。ソレト、オマエノレンジャー仲間ハ、腕ガ立ツカ?」
指示されずとも、ティファニーは〈ユニフォーム〉を羽織るつもりでいた。白濁したグリィ89の眼から徐々に泪が滴りはじめ、黄金色の輝きを帯びはじめていたからだ。
回復したとは言いがたい体に鞭を打って、よろめきながら立ち上がる。軽い目眩がし、力を入れた拍子に腹部の傷がキリッと痛んだが、鎮痛剤がよく効いているようで、動くぶんには問題なさそうだった。
「
「ナラ安心ダナ。アア、心配スルナ。オマエノレンジャー仲間ヲ襲ウヤツハ、ワタシガ止メル。少シハ手伝ッテモラウコトニナルダロウガ、手練レナラ、問題ナイダロウ? 躊躇ワズ、針ヲ突キ刺シテクレレバイイ。……サ、トゥルー。カノジョノ手ヲ握ッテ」
「ぐりぃ89は、どこにいくの?」
「ドコニモ行カナイサ。チョット、オ父上ト話ヲシテクルダケダ。ワタシハ、イツダッテ、ソバニイル」
「だめよ! 一人で行ったらグリィ89、あなたは……!」
「イイカラ、トゥルーヲ連レテイケ。レンジャーノ船デ、ココカラ離レロ。外ヲ見セルナ」
「聞いて! チームに連絡させて。話をすれば、もっといい案がきっとあるわ!」
「アレヲ、見テモソウ言エルカ?」
顎で示されたほうを見やったティファニーは、息を吞んだ。
フィギュアケースに鎮座していた“人形”たちが、いつの間にか独りでに動き、ガラスを叩いている。まだミニチュアサイズだが、ユニーカが解けかけているのは一目瞭然だった。
「そんなっ?! どうして!? まさか、反転共鳴!?」
「ワタシニワカルノハ、今スグココヲ離レタホウガイイトイウコトダ。――レンジャー・ロドリゲス」
「だめよ、グリィ89。トゥルーのこと考えて。あなたになにかあったら、トゥルーが悲しむ――」
「――レンジャー・ロドリゲスッ! 誓ッテクレ。何ガアッテモ、コノ子タチヲ守リキルト。母親ノ元へ帰スト、誓ッテクレ」
トゥルーを抱き上げた腕ガ、痛いほどに強くつかまれ、ティファニーは身構えた。が、見上げた双眸は、刻々と己を失いつつも、誰かのことを想ってやまない強さを消していなかった。
「……誓うわ。トゥルーたちは、私が必ず、守る。だからグリィ89、あなたも――」
馴染んだコンソールの装着感がすると同時に、腕を強く引かれる。
ティファニーと逆に、一斉にガラスの割れる音が続いた背後へ駆け出したグリィ89と擦れ違い様、こんな声を聞いた気がした。
――レンジャーハ、嫌イナンダ。
† † †
確かにレンジャーは嫌いだ。
大義名分がどうあれ、彼らは自分から愛する人を奪った。その事実は変わらない。
ただ、自分でもよくわからないが、この若き
トゥルーのユニーカから解き放たれ、正面から殺到してくる
なぜ、自分だけが“染まって”なお、こうして思考を保てているのか、理由はわからなかった。
タイラ氏と対立し、涙幽者化してしまった夫人が、トゥルーのユニーカによって“固定”された後に記憶を無くして元通りに戻ったのは、夫人がトゥルーの母親だからだったのだろうと推測がつく。
だが、一介のシッターに過ぎない自分が、姿形は“染まった”ままであるとは言え、思考を保っている理由がわからない。――否、知ってしまいたくなかった。
若きレンジャー・ロドリゲスの問いをはぐらかしたのは、そのためだ。
トゥルーもフォリナーも、自分にとっては実の子に等しい。プロとして一線を越えたことはなくても、生まれてきたときから世話をしている自分は、心からあの子たちを愛している。
亡き夫も、子どもが好きな人だった。いつかは養子を迎えようと、本気で話し合っていた頃が懐かしい。
「アラン! アラン!」
――ああ。覚えていてくれたのか。
背後から呼ばれた本名に、今すぐ追いかけていって応えてあげたかった。
だがそれはできない。
今、頬を伝っている熱い泪は、かつてアランという名前で呼ばれていたシッターのものではない。
「――――」
レンジャーとトゥルーが部屋を出た気配を確かめ、カギ爪を振り下ろしてきた同類へ、逆に己の牙を突き立てる。
涙幽者の集団は、まるで気に介さずに部屋の入り口へ向かおうとしていた。
――行かせてなるものか。
トゥルーのユニーカはおおよそあらゆる相手を固定できた。
だが、全員を“染まって”しまう前の状態にまで戻せるわけではないらしかった。
成功したのは、自分と夫人の二人のみ。
願わくば、タイラ氏が3人目となってくれることだ。
あの家族には、これからも幸せであり続けてほしい。
――お仕えできて、光栄でした。
わずかに残された思考を温かな想いで満たすと、まるで潮が引いていくように、記憶も慈しみも乾いていく。
「――――」
――ドウカ、オゲンキデ。
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