Episode 3 - 希望の昏睡
「――命は、取り留めたわ」
観音開きのオペ室のドアが開くなり、スクラブキャップに手を当て出てきたその人物はそう告げた。
椀の形に似た布製の丸帽から、輝く金髪がハラハラとこぼれ落ち、夜間の廊下を静々と照らすコーブライトの下で踊る。
「そ。で、“腹ぺこ”のほうは?」
「肋骨を3本骨折に腹部の打撲、軽度の感電による火傷。……負傷の数なら、こっちのほうが多いわね」
「そうじゃないってば。いまどっちで、眠ってるの?」
「ハァ……。アンタって子は、相変わらずね」
負傷者の容態よりも真っ先に訊いてくる、その問い。待合ロビーの廊下に背を預け、威療士の〈ユニフォーム〉のまま、吊り目がちな黒瞳を向けてきた少女の在り方に、腕を組んだ医師――ドクター・カーラ・ハフナイアは、夜勤早々の手術とは異なる要因の呆れた吐息を漏らす。
「命は取り留めたって言ったでしょ。ちゃんと、昏睡状態よ」
そうカーラが答えると、睨みつけるように向けてきていた目が、わずかに緩み、「オーケー。よかった」と露骨に安堵の吐息を吐いた。
自分で答えておきながら、カーラは自分の言葉の可笑しさに眉根を揉みたくなってくる。
どう解釈したところで、患者が昏睡状態で良いはずなどない。昏睡状態とは、有り体に言って目を覚ますか定かでない状態のことを指すからだ。それは目を覚ますという奇跡に、希望の全てを託すようなもので、まかり間違えても喜んでいいはずのものではない。――もし、涙幽者でなければ。
「だけど、完全消耗の寸前だったわよ? あと数分遅れていたら、手遅れね。飢餓係数を見ていない……いえ、見ないんだったわねアンタ」
若くして医師になったカーラを始め、他の医師も、その何世代も前の医師たちも、涙幽者についてはわかっていないことのほうが多い。少ない理解の中でわかっていることの一つが、その異常な代謝速度だ。
涙幽者は、とにもかくにも代謝が速い。言うなれば、極めて燃費性能が低い暴走車だ。
しかも、正常な人体ではブレーキが掛かって止まるはずの自己代謝さえ、彼らの場合は厭わない。つまり、文字通り涙幽者は、自分の身体を燃料にして動いている。
「あんな数字、ただのデータの寄せ集めじゃん。基準値は参考でしかないよ。てか、本人を見ればだいたいわかるし」
「そのデータの上に、威療は成りたっているわよ? 目測ばかりで処置してたら、目も当てられないわ」
顎を引いたカーラの反論に対し、リエリーはツンと顎を突き上げて意に返さない。その首を覆う臙脂色のスヌードで、刻印された二対の翼が光沢を返した。
その翼は白と黒の2色に染められ、巨大な翼が
威療士なら全員が着用するこの徽章だが、リエリーを知る者ならそれが持つもう一つの意味も知っている。
「……史上最年少の威療士、だからできる芸当よ。データにはちゃんと意味があるし、ふつう、それを参考にするんだけど」
「やめて、マッドドック。威療士だったらみんなできる。できないヤツは、目が節穴か、鼻がひん曲がり」
「その口の悪さがなければ、もう少しかわいいんだけどね」
カーラの小言が聞こえていないのか、それとも聞こえないフリをしているのか、当の威療士は愛用の
「そうそう。あとでちゃんとアキラたちに挨拶しときなさい? 穏やかに、ね」
「……は? なんで?」
「アンタが降りたウチの屋上2番ポート、当番のアキラたちが待機してたからよ」
「げっ。よりによってあいつらかよ……」
「礼ならアキラたちに言うことね」
「……わぁったよ」
普段ならすかさず返るはずの減らず口が、今日は跳ね上げた眼鏡を戻すだけに留まる。
珍しいこともあるものだと、カーラ医師は不思議に思いかけ、ふと記憶の断片がよぎった。
「あぁ、なるほど、それで。……じゃ、がんばんなさいよ、あと3時間で16歳になる威療士くん」
「うっさい、キモい」
投げつけられた照れ隠しの言葉に、カーラは降参を意味する肩をすくめる仕草を返して背を向ける。
「あの子、もう16歳かぁ。ということは、私もここに来て15年になる、っと」
思考につられるようにして、脳が勝手に記憶を辿ろうとする。それをカーラは、「私も歳とるわけね」と自虐することで強引に遮った。
「さてと」
深呼吸し、頭をクリアにしていく。救急威療を専門にしているおかげで、こういう切り替えはカーラの得意とするところだった。ついでに邪念も払い除けられる。
「私は私の十八番で命を救うわよ」
自分に言い聞かせるように独りごち、カーラは足を速めた。
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