Episode 1 - 月灯りの涙幽者

「――――」

 閑静な住宅街に、その物悲しい遠吠えが、木霊する。

 それは紛れなく野獣の野太い咆哮でありながら、尾を引く余韻がなぜか、聞く者の心を締め付ける哀愁があった。

 愛し、求め、されど与えられない。

 そんな、どこか自虐的な苛立ちさえ感じさせる長い長い遠吠えだった。

「――独り善がりな想いなんか、嫌われるだけだ、てのッ!」

 住宅街に建つ、平均的な二階建ての家屋。

 その芝生の庭に面したキッチンの壁が、まるで映画の大道具さながらに砕け散った。手入れされ、月光に湿った艶を放つ芝生が大規模に抉られて、その巨体はほとんど車道の中央まで吹き飛ばされる。

 もんどり打ちつつ、その巨躯は、アスファルトの地面に刃渡り15cmもある湾曲したカギ爪を突き立て、体勢を立て直す。

 月光の元に照らし出されたその異形は、典型的な〈涙幽者スペクター〉の姿形をしていた。

 身長2mを超す上背がありながら、その獣毛に覆われた体躯は枯木のように細い。猛烈な代謝速度を示すように毛皮の上から肋骨が浮き出てもいた。

 脚の長さに比肩する長い両腕の一方が力なくだらりと垂れ下がり、その欠けた爪から血が滴る。

〈涙幽者〉に特徴的な突き出た鼻面の上で、白く濁りきった双眸が束の間さまよい、ピタリと一方向を見据えた。その眼から流れ落ちて止まらない滂沱の涙で、狼様オオカミの毛深い顔が、ヌメリに包まれる。

「――――」

 再びの咆哮は、視覚可能な音の波を空間に伝えて発せられる。文字通り、物理エネルギーの塊となった〈涙幽者〉の音波攻撃が、 アスファルトもろとも粉砕しながら弾き飛ばされた半壊の家屋へ迫った。

「だぁから、しつこい男は嫌われるんだってば!」

 その音の重圧を割って、苛立たしげな若者の感想の言葉が、屋内から発せられた。

 その少女然とした声音に、波長が合うように温かな緑色の光が加わり、〈涙幽者〉の音波攻撃を霧散させる。

 と同時に、辺りへ散った建材が独りでに浮遊し、次の瞬間、〈涙幽者〉の元へと高速で吶喊した。

『――ちょっとエリーちゃん! 要救助者の家を道具に使うの、やめてね? 保険が利かないの、知ってるでしょ』

 剥き出しになった家の内部、そのキッチンのフローリングに横たわる人影。その体の下からは、赤黒い血溜まりが静々と広がっていた。

「壊したのは“腹ぺこレベネス”のほうじゃん! あたし今、手当てで動けないし」

 人影の傍にしゃがみ込み、テキパキと手を動かしていた小柄な姿が、そう胸元のへと叫び返す。

 纏うは、暗闇を照らす蒼い光――ホープブルーの威療士制装レンジャー・ユニフォーム

 その華奢な背で、三重のチョコドーナツを貫く紫電ライトニングのエンブレムが、危機的な状況にそぐわないポップな蛍光色を発し、一本に結ばれたポニーテールが跳ねた。

「出血が多すぎる。はやく処置しないと……」

 そばかすが目立つ童顔を固くさせ、ユニフォーム姿の少女――リエリーの口から紡がれた言葉は、目の前の状況に対する分析だ。

 現場に到着してから約3分。

 リエリーが上空から屋根を突き破って屋内へ突入したときには、既に惨状が広がったあとだった。

 横たわる負傷者は腹部を噛み切られ、レンジャーの標準装備では手の施しようがない。眼鏡型情報端末グラシスギアが伝えてくるその容態は刻々と悪化し、生命の瀬戸際に追い込まれていることを物語っていた。――加えて。

「――――」

 リエリーの機転で拘束されていた、〈涙幽者〉。その痩身の巨体が一時凌ぎの拘束具を振り払い、再度の突進を仕掛けてくる。負傷者の手当てで背を向けていたリエリーには反応する刹那も与えられずに――、

「――眠れ」

 静謐なその低い声色は、さながら死を宣告する大鎌のようだった。

 事実、〈涙幽者〉には自身に何が起こったのか、理解することもままならなかったに違いない。

 彼が理解できたことと言えば、手を伸ばせば届いたはずの負傷者に触れることは叶わず、代わりに、胸部へ強烈に過ぎる一撃を受けたということくらいかもしれない。

 その一撃は、強固に変異した皮膚を持つ〈涙幽者〉でなければ、容易に心臓を破裂させるほどの威力を持つ。おまけに、拳に纏わり付いた紫電が、全身の筋を硬直させる。

 上方向アッパー気味に胸郭中央へめり込んだ拳から伝わった一撃を受け、さしもの〈涙幽者〉も息が詰まり、膝から崩れ落ちるほかなかった。

「ナイス、ロカ」

「だろ!」

『だろ、じゃありませんよっ! レンジャー・マロカ?』

「あー、ああ、そうだな。うん、よくないぞー、リエリー。飛行中の救助艇から飛び降りるのはたいへんに危険だからな、うん」

「ハッチの開き、コンマ5秒縮んでたよ。ロカならもっと短縮できるんじゃない?」

「ほんとか! おうとも! 次のときまでにゃ、ラグ無しで飛べるようにしてやるからな!」

『もぅ! 二人とも、帰ったら反省文を書いてもらいますからねっ!』

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