第19話 ブロッコリーは腐りやすい⑧
「離婚?なんで、、、」
俺が調理師学校に進むということを両親に伝えた時、それはあっけなく承諾された。
ただ、返ってきた母親の言葉に、俺は絶句した。
俺のわがままを受け入れてくれた。
だから両親のわがままも受け入れなくてはいけない。
そんな殊勝な言葉が思いついたが、口は重かった。
「お父さん、浮気してたのよ、ずっと」
ありきたりだ。ありきたりすぎて、現実感がない。
母はそのまま、泣き崩れてしまった。
離婚が決まって、俺は母親と2人暮らしになった。
「お父さんがいないと寂しいですか?」
彼女に振られてから、しかし、以前にもまして彼女との距離はさらに近くなった。
年が明けて、中2の1月だった。
彼女は妹に誕生日プレゼントを買うために街に出ていた。
俺は、そんな彼女に付き合いつつ、包丁を買いに来ていた。
「料理雑誌そんなに読んでるなら、プロが使ってる包丁とか知ってる?」
そう聞いたのがきっかけだった。
「寂しい、、、かな。一番はそれで母親が落ち込んでるのを見るのがつらいけど」
「そうなんですね。でも、落ち込んでる人を見て、つらいと思う時、自分の心を他人に取られた気がしないですか?」
「取られる?」
「そう、この場合は、勇くんの心を、お母さんが取ったことになってますよね」
言わんとしていることはなんとなく分かった。
「例えば、俺が痴漢に会ったとして、その日1日最悪だって感情で過ごしてたら、確かにそう思うね。でもそれが、自分の大切な人のことなら、いいかな」
「勇くんが痴漢に会うんですか?ふふふっ、おかしいです」
彼女は口を押えて笑った。
上品なキャメルのワッフルコートを着て、黒のマフラーをしている彼女は、いつもより大人にも、幼くも見えた。
「そしたらさ、今日もおかしくない?妹の誕生日プレゼントを買うわけでしょ?だったら、今、君の心は妹に奪われている訳だ」
「おっしゃる通りです。鋭いですね。でもこれは、肉を切らせて骨を切る、みたいなことです」
「意味が分からん」
その日は彼女の気まぐれだったのだろう。
彼女は自分の家のことを訥々としゃべりだした。
妹は同い年の連れ子同士。
妹は両親からネグレクト気味。
自分に課されているスパルタ教育。
「私、愛情って嫌いなんです」
彼女のその言葉には、誰も寄せ付けない力があった。
彼女の妹への誕生日プレゼントはすぐに決まった。
「瑠花さんはおしゃれが好きですから、これにしましょう」
と、アウトドアメーカーのキャップにした。
「これで罪悪感もチャラです」
要するに、両親からのクリスマスプレゼントは自分だけが貰うため、その罪悪感を抱えているのが面倒で、誕生日プレゼントだけはいつも妹に買っているのだと言う。
こうしないと、ずっと引け目を感じて、心を取られ続けるから。
俺の包丁もすぐに決まった。
彼女のアドバイスで、当たりを付けていたものだった。
「本当はペティナイフも欲しいけどね」
今は家庭がごちゃごちゃで、そんな金もない。
「バイトでもしようかな。練習のための食材も買わなきゃだし」
「そうですか、、、私に良い案があります」
そうして紹介されたのが、エミール・白鷺だった。
「姫の紹介なら、検討しますがねー、君はなんで料理を作りたいの?」
眼窩の奥から、舐めるような視線を向けてくるエミール。
ただ、俺ははっきりと言った。
「誰かの心を、一瞬でも奪いたいから。その瞬間だけは、料理に心を奪われてしまえば楽になるから」
「ほーー、いいねぇ若くて。ただ、嘘はいけないね。誰か、じゃないでしょ?」
そうだ。
一緒に包丁を買いに行ったとき、彼女は元気ではなかった。
高良京香の店が不祥事でつぶれて、行方不明。
彼女の唯一の心の支えが、唯一、彼女の心に住まうことのできた人間が、消えた。その場所を返すこともしないまま。
俺はそれから学校終わり、毎日エミールの店に通った。
同じ料理を繰り返し作る。
高校生の先輩たちに混じって、来る日も来る日も。
その一方で、母は日に日にやつれていった。
「あなたはいいわねぇ、夢があって。毎日料理作って楽しくて、、、」
「あなたを見てると、自分がみじめに思えてくるわ」
「専業主婦で、したいことも諦めて、あなたを育てて」
「高校は全寮制なんでしょう?正直ほっとしてる」
俺はそれでも、懸命に母に声をかけた。
たしかに、僕の心は母に奪われていった。
だけど週に1回、彼女は放課後、俺の試作品を食べてくれた。
牛の赤ワイン煮込み。
その1回が、唯一、僕が母から解放される瞬間だった。
「すごく良いです、どんどん上手になってます」
俺はその言葉に、涙が止まらなくなった。
「勇くんは、やっぱり私と違って自由。こうして泣けるんだもの。私みたいに、お母さんのこと切り捨ててない、それが自由だと私は思います」
「奪われているのに?」
「奪われることに、絶えて、許すことを選んでいるんですから」
彼女はそう言って俺の頭を撫でてくれた。
彼女がなぜ、俺に時間を使ってくれるのか。
きっと、優しさではない。それは分かっている。
彼女にはきっと、あの男しか見えていないから。
ただ、それでも、嬉しかった。
「あ、でも1つだけ。お弁当にして持ってくるなら、付け合わせはブロッコリーじゃない方が良いと思います。腐りやすいから」
「そっか、わかったよ」
彼女を救いたい。
その思いだけが、母と過ごす日々の俺を腐らせなかった。
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