第17話 ブロッコリーは腐りやすい⑥

には何もない。

勉強だけは少しだけ普通よりできると思っていたが、それも中学受験をしたことが間違いの始まり。中高一貫校の授業ペースにはすぐについていけなくなった。


いさみはさ、文系志望?」


中学生に文系・理系などあるか、というツッコミが浮かんだが、


「そうだね」

「じゃぁさ、俺たち今、アンドレ・ジッドを原文で読む会ってのをやってるんだけど参加するかい?」


どこの誰だそいつ。


「いいや、俺は、、、」

「あれ、文学は興味ない?哲学?社会学?哲学なら最近はあれだよね、新しい実存主義が、、、」

「ごめん、俺そういうのあんま興味なくて、、、」


そんなことが何度か続けば、誰も声をかけてこなくなる。

部活にも入らず、帰っても勉強する振りばかり。

両親は高卒で、特に母は、


「勉強なんて、楽しくなければしなくていいんだからね。大事なのは手に職よ、手に職」

「でも大学は行かないと」

「大学なんて行かなくても、お父さんは家も買って養ってくれてるでしょう?」


いつの話をしているんだ、この母親は。

まったく現実が見えていない。

父親だって、運よく高卒で入った、当時まだ成長前のIT企業が伸びただけだ。今では父親がやってる仕事も高学歴しかいない。


それにだ。

俺には才能もなければ、やる気もない。

そもそも努力すべき目標がなければやる気も起きない。

そんなことを言うと、世の成功者はまず行動をしろと言う。

でも、そもそもその行動を起こすだけの気持ちすら湧かないのだ。

こんな人間が、高校大学と経て、一角の人間になれるのだろうか。

いや、なれるはずなどない。

将来に対する漠然とした不安ばかりが募っていく。



「シャーペン、落ちましたよ」


そんな鬱々とした気分の、ある授業中のことだった。

同じ班、となりの席の女の子からだった。

入学した当初はそうでもなかったものの、秋ごろから急に人気になり、中1の中で1番かわいいと言われ、高等部の生徒まで見に来る始末の女の子。


彼女は俺とは違う。

すでに中学の勉強など終え、いつも高校の参考書を読み、陸上部でも駅伝のエースだと言う。


俺は何を思ったか、昼休みにその女の子に声をかけた。


「シャーペン、拾ってくれてありがとう」


女の子は今更?というような顔をして、ただ、


「壊れてなかったですか?」


と言った。


「うん。あの、、、それイタリア語?」


彼女は昼休みにいつも外国の雑誌を読んでいた。

俺は前々から気になっていたのだ。


「そうです。私、言語を勉強するのが好きなんです」


ご多分に漏れず、彼女も周りの人間と同種だった。


中学生男子なぞ単純だ。

それだけのことで、1回の会話のやり取りで、毎日、彼女の隣に座って1日を過ごすことが楽しみになった。

将来に対する不安など、微塵も感じなくなった。


彼女を観察していると、いろいろ分かったことがあった。

彼女はクラスの女子の中心だったが、みんなで笑い合った後、彼女だけがすぐに何も感じていないような真顔に戻る。

きっと興味がないのだ、みんなの話に。

それから、彼女以外の人間は小グループを作っていて、そのグループ同士が交流したいとき、彼女を仲介する。それはまさに通訳のように。ゆえに、彼女は台風の目のように、意外にも静かに1人でいることも多かった。


それから、最も大きな発見は、彼女が読んでる雑誌についてだった。


ある日、日直の仕事として、みなが部活に行くため更衣室に移動した後、2人で黒板を消しているときだった。


「ねぇ、君は料理が好きなの?」


と俺は聞いた。

彼女は声を掛けられると思っていなかったようで、少しの沈黙の後、


「へへへ、バレてしまいましたか。カモフラージュとして、ファッション誌やビジネス系も読んでたんですけど」


聞いたことのないような笑い声が聞けて、俺は簡単に昂った。


「うん、料理のが多かったから」

「料理は、1人で、自由なんです。だから好きなんです」

「え?料理はみんなで食べるものじゃないの?」

「そうですね、へへへ」

「それに別に料理好きなのは隠す必要ないんじゃない?」

「そうですねぇ」


彼女はふと教卓に飛び乗って、脚をふらふらさせながら、腕に通していたゴムで長い髪をポニーテールにした。

それからじっと天井を見やる。

窓を透かした夕陽に影となって、彼女の顔が暗くなった。


なんで俺より、苦しそうな顔をしているんだろう。

それは心配ではなく、怒りに近い感情だった。


「君は誰よりも自由だ。勉強もできて、運動も、それから家もお金持ちだって。なんでもできるよ」


俺は怒りからか、嫌みのようなことを言った。


「そうかもしれません、だけど、、、」


それから、彼女はこんなことを言った。


もし、才能が1つしかない男がいて、他のことは全く何もできなくて、でも彼は最初にその才能のある分野を自分で選んだとします。果たして、彼は自由?自由じゃない?どっちなんでしょう?


俺は彼女の言っていることが全くわからなかった。


2年生になっても、彼女とは同じクラスになった。

料理が好き。

その1つの事実を知っているだけで、彼女の中で俺は少しだけ特別になったらしかった。

2日に1回ほどは他愛ない話をし、顔を合わせれば挨拶をした。

それから、また同じ班になった。


「来週の調理実習、シャケのムニエルだって」


朝練が終わって、着替えてから教室に来る彼女は、少しだけ目がらんらんとしている。


「ムニエル、そうなんですか。頑張りましょうね」


夏休みも目前にした頃、調理実習室の中は賑やかだった。

いかに進学校といえど、こういったイベントは浮足立つものだ。


俺はこの日のために家でも練習をしてきた。

彼女の好きな「料理」だから。


「小麦粉ってどうするん?ばーって出して、そこにつければいいの?」

「揚げ物かよ!」


「ザルか茶こしを使うといいよ、均等に振れるから」


「おお、いさみは料理男子だったか!」

「へー凄いね、確かに教科書にそう書いてあるわ」


俺は予習してきたことを言っただけだった。

流れで、そのまま俺がメインでやることになった。


「フライパンが熱くなる前にシャケを入れて、皮目から焼くんだ」

「出てきた油はキッチンペーパーで拭いて」

「バターはこうやって、スプーンでシャケにかけるといいよ」


恥ずかしさを感じながらも、それを茶化す者はいなかった。

地域の優等生が集まっているのだ、努力に対しては素直に賞賛できるぐらいにはみな大人だった。


いさみ、まじでうめぇよこれ、天才シェフだな」

「ほんとにね、料理男子だわ」


そんな言葉をかけられて嬉しくないはずがなかった。

ただ、俺が気になっていた彼女は、意外にも実習中は大人しかった。

興味がない、というほどではないが、積極的でもなかった。

ただ、そんな彼女も、一口食べて、


「うん、勇くんが焼いたやつ良いです。すごいですね」


とにこっと笑って言った。


そんなことがあって、俺はいてもたってもいられなかった。

今考えれば、どうしてそんな行動的になったのか分からない。


まずは行動すべし。


その成功者たちの言っていることの意味が、初めて体感として理解できたのかもしれない。


「俺と付き合ってください」


彼女の下校を待って、誰もいない公園の東屋でそう言った。

彼女は驚きもせず、


「どうして?」

「好きだからです」

「そう。付き合ったら何するんですか?」

「何って、、、デート、、、とか?」


俺はその時の彼女の表情を、一生忘れられないだろう。

軽蔑、蔑み、忌避、辟易。

そんな感情をごった煮にしたような目。


「ごめんなさい。私、誰とも付き合う気はないんです。許してください。それにあなたは自由、でしょう?私と付き合うなんて間違っています。」


俺は彼女のその表情から逃げたくて、でも家にも帰りたくなくて、教室に駆け戻った。

フラれた、その衝撃や悲しさも大きかったが、それ以上になお己の中に彼女に対する興味が湧いたのを見逃せなかった。

彼女はいったい、本当はどんな人間なんだろう。


その時、彼女の机から、また例の雑誌が少しだけ出ているのが見えた。

いけないとわかりつつ、興味本位でその雑誌を開く。

いや、開くというよりは、勝手に開いたのだ。


何度も何度も読んで、癖のついたページだからだ。

その日持っていたのは、イタリア語だのフランス語ではなく、日本の料理雑誌だった。


『帰還した若き天才シェフ__高良京香の世界』


東京で店舗を構える日本人シェフ。

中学校卒業後、イタリアの三ツ星レストランで修行。18の若さで自分の店を出す。

最年少ツーゴールド評価シェフ。

突然の帰国と、東京で新しい店舗のオープン。

華々しい経歴。


雑誌の両面を使って、大きくその坊主頭のシェフの写真。


「これは、、、、?」


その時、俺が見たモノ。

そのシェフの写真の、丁度顔のところが赤く汚れていた。

その意味を知ったとき、最初に感じた感情はなんだったか。


「高等部には進学しません」


その年の秋、進路相談で俺は担任に言った。


「俺は、ルメール調理師高等学校に進学します」


それがおおよそ、1年前の話だ。



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