第2話 フルン・ダーク
アーキーは厨房で、深いため息をついた。
厨房と客席を隔てる壁に設けられた小さな窓から、客席に視線を向ける。今日も今日とて客は少ない。立派に磨き抜かれた調度品や窓ガラスが、シャンデリアの光を反射しているばかりだ。
今は亡き、先代の料理長でありこの店の創業者でもある店長から店を継いだのはよかったが、ディナー時間帯の客が目に見えて減った。ランチタイムの客に変化はないから、何とか店が続いているものの、これは由々しき事態である。
アーキーは再び、深いため息をつく。
「相変わらず、暇ですねえ」
そこにやってきたのはリツだ。ホールにいても接客する相手がいなければどうしようもない。リツは手入れの行き届いた厨房を眺めると、そばにあった小さな椅子に腰かけた。
「特に今日は天気も悪いし、外を歩く人も少ないですね」
「ああ……」
リツの言葉にうわの空で相槌を打ちながら、アーキーはポケットから一枚のメモを取り出した。
それは古く、ところどころが変色して、今にも朽ち果てそうな紙だった。
メモには、かすれるような筆跡で、様々な料理名が書かれている。前菜に始まり、合わせる飲み物まで。いわゆる、フルコースのメニューだ。しかしそれのどこにも、レシピは載っていない。
メモをじっと見つめるアーキーをリツは黙って見ていた。
「料理長~、ちょっと来てくださ~い」
静寂に包まれた厨房に、少女の声が聞こえてきた。厨房の外、どうやら食料庫から聞こえてくるようだった。
アーキーとリツが食料庫に向かうと、そこには三人の少女がいた。少女たちはリツと同じような制服を着ている。声の主はそのうちの一人、タキだった。短いふわふわの赤毛のサイドを白いピンで留め、まん丸な薄い緑色の目がかわいらしい。
「どうした」
「これ、そろそろ使い切っておかないと」
タキが木箱から取り上げたのはじゃがいもだった。
「こっちにもありますよ~」
倉庫の奥で他の少女、ルシアがそう言う。ウェーブのかかった濃いブロンドの髪をシニヨンにし、その周りをみつあみで囲んでいる。揺れるリボンは彼女の勝気な瞳と同じ落ち着いた青色である。
その隣で、もう一人の少女、シイナも箱を抱え上げる。彼女もつややかな長いダークブロンドの髪をシニヨンにしている。浅黒い肌にグレーの瞳が涼しげだ。
「どうするんですか、これだけの量」
「う~ん……」
アーキーは頭を抱える。客への提供に加えて料理の研究もするから、と多めに発注したのがいけなかった。なにせ、それだけの量を消費するほど、お客は来ていないのである。
すると、山積みになった木箱の陰からひょっこりと現れたソアが言った。
「またみんなで持って帰ればいいだろう? そうやって見るとたくさんだけど、分けたら案外少ないもんだよ」
「そうなりますよねー、やっぱり……」
はは、とリツは力なく笑った。余った食材がもったいないから、と皆で分けて持ち帰り始めたのはいつからだろう。はじめこそ食費の足しになると喜んでいたが、こうも頻繁になると、不安になる。
少女たちは手際よくじゃがいもを分けていく。その途中、作業の手は止めないままルシアが言った。
「そういえば、転移者の子を保護したんですよね?」
「ああ……なんだっけ、名前。サキちゃん?」
と、シイナはアーキーを振り返る。
「あの子、これからどうするんです?」
その問いに、アーキーは少し間を置いてから答えた。
「とりあえずうちの仮眠室に泊まってもらおうとは思っているが……」
「その後をどうするか、ですよね。色々手続もあるらしいですし」
「ああ、それは明日俺が一緒に行こうと思っている」
アーキーが言うと、皆、「それがいい」と頷いた。
「早い方がいいですもんね」
袋一杯になったじゃがいもを従業員の人数分――この場にいる六人分、麻袋に分けた後、タキは何でもないようにそれを全部抱えた。
「あ、その子の分も準備した方がよかったですかね? ジャガイモ」
「いや。急に渡されても困るだろう……」
ふわりと鼻をかすめる香ばしいにおい、何かが焼ける音、賑やかな笑い声、暖かな空気……
「ん……?」
咲が目を開けると、そこは厨房だった。たくさんの料理人がいて、威勢のいい声が飛び交う。咲はそんな厨房の隅で、丸い木製の椅子に座っていた。しかし、誰も咲のことを気に留めない。忙しさで気付いていないのではなく、そもそもそこに存在していない、という様子だ。
厨房の熱気は、咲にとってなじみのあるものだった。しかし、その厨房は彼女の職場ではない。見慣れぬ厨房だ。
たくさんの人びとが行きかう厨房で、ひときわ忙しそうに立ち回る男がいた。
相当な老齢であるが、しゃんと伸びた背筋に凛々しい表情は若々しささえ感じる。調理する手元はじつに鮮やかで、咲は思わず見とれてしまった。
やがてその光景は色が抜け始める。まるで、紙が朽ちていくように。
人が少しずつ減っていき、笑い声は小さくなる。
まっさらになった厨房には、老齢の男が一人、立っていた。
ぼんやりとしてきた頭で、咲は最後に男を見た。男は咲の視線に気づいたのか分からないが、咲を振り返る。
強い意志の宿った瞳が、咲をとらえて離さなかった。
「……ここはどこだ」
見慣れない天井と疲労感に咲は眉をしかめてつぶやくが、その間にも徐々に記憶がよみがえってくる。
突然知らない場所に飛ばされた挙句、元居た場所には帰れない。今はたまたま助けてくれたレストランの一室にお世話になっていて、それで、これからどうしようか――
「ああ~、もう」
枕に抱き着いて咲が叫んだ時、扉をノックする音がした。咲はがばっと起きると髪を整える。
「はいっ」
「すまない、アーキーだ。入っても大丈夫か」
「どうぞ」
ゆっくりと扉を開けて顔をのぞかせたのはアーキーだ。先ほどより顔色がよくなった咲を見て、アーキーはほっと胸をなでおろした。
「調子はどうだ?」
「おかげさまで、だいぶ落ち着きました」
「そうか」
よかった、とアーキーはつぶやく。
「今日はここに泊まって行くといい」
「何から何まですみません……」
咲が深々と頭を下げると、アーキーは「なに、構わない」と愛想よく笑った。笑うと思ったよりも柔らかな印象になるのだな、と咲は思った。
「それと、さっき話した手続についてなんだが」
「ああ、身分を保障してくれるっていう……」
「できるだけ早い方がいいだろうから、明日、一緒に行こう。明日は店が定休日なんだ」
「分かりました」
「それでだな……」
アーキーは困ったような表情になった。何か問題でもあるのだろうか、と咲は不安になったが、それは杞憂だった。
「みんなも一緒に着いて行きたいと言っているんだが、いいか?」
「え、ああ、はい。どうぞ……」
思いがけない言葉に、つい変な返答になってしまったが、アーキーは「そうか」と安心したように微笑んだ。
「それじゃあ、ゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます」
「また明日」
アーキーが部屋を出た後、咲は一つ小さく息をついた。
「明日、か……」
咲は独り言ち、窓辺に立った。雨に濡れた見慣れぬ街。確か今日の夜の天気は晴れで、星がよく見えるはずだった。そして明日は、いつも通り朝日が昇る前に起きるはずだった。
静かな部屋に、ただ雨音だけが響く。
まだ夢を見ているような心地で、咲は部屋の電気を消した。
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