フルン・ダークの料理人
藤里 侑
第1話 見知らぬ世界
神名咲は、途方に暮れていた。
料理人としての激務を終え、帰り着いたのもつかの間、リビングで寝落ちしたまではよかった。
しかし次に目を覚ましてみると、そこは家ではなかった。
「なに、ここ……」
薄暗いその場所は室内ではないが、完全な外でもなかった。ゆらゆらと揺れる感覚にめまいを覚え、咲は壁にもたれかかる。見れば先ほどまでの恰好とは打って変わって、普段の彼女からすれば到底現実的ではない服を身にまとっていた。
赤みがかったブラウンのブラウスは胸元にレースとリボンがあしらわれ、実に華やかな印象だ。コルセットスカートは黒のロング丈、黒いタイツにキャラメル色のブーツ。色白でつややかな黒髪の彼女によく似合っていたが、咲はそれどころではなかった。
めまいが落ち着いたところで、どうやらガラス窓があるらしいと気づいた咲は恐る恐る外をのぞき込んだ。
眼下に見えるのは、底の見えない水面。どうやら自分が今いるのは船の中で、横たわっていたのは座席の下だったらしい、と彼女は考えた。視線を巡らせる。暖かい色合いのレンガ造りの建物が主で、そこかしこに花が咲き誇っている。
しかし、どんよりと薄暗い天気のせいか、道行く人はいない。
咲は座席に手をついて立ち上がり、よろけながら外に出た。
船の外は、夜だった。
「うっ、寒い……」
びゅう、と吹きすさぶ風。咲は慌てて陸上へ降り立った。
ますますもって、ここがどこだか分からない。咲は呆然と立ち尽くす。人の姿はおろか、光の一つも見当たらない。
再び風が吹き、身震いする。
とにかく風をしのげる場所をと思って、咲は足早に建物が連なる路地へ入った。建物に囲まれると幾分寒さは落ち着くが、不安も相まって体が小刻みに震える。
それから間もなくして、ぽつりぽつりと雨が降り出した。
「うそでしょ……」
もちろん、傘などはもっていない。こんなことなら船の中にいればよかったと後悔するが、とにかく暖かいところへと思って突き進んだ道を戻ることは、彼女には不可能だった。吹き抜けの路地に、容赦なく雨が降り注ぎ始める。
咲は慌てて周囲を見回す。と、とりあえず雨をしのげそうな場所を見つけたので、そこに向かって走った。
そこはレストランの入り口のようだった。年季の入った白い壁に濃い焦げ茶色の木製の重厚な扉がはまっている。ささやかな雨除けは緑色で、日に焼けて色あせている。咲は慌てて、その下に入った。
店内に人の気配はない。咲はため息をつき、震える自分の体を抱きしめた。
これからどうしようか、そもそもここはどこで、自分はどうしたのだろう。夢ならば覚めてほしいが、おそらくこれは夢ではない、と咲は心のどこかで感じていた。もしかしたら、元の場所に帰れないかもしれない、とも――
咲は途方に暮れた。
と、その時、店に明かりが灯って咲はびくっとした。
「こんばんは」
咲の姿を見かけたらしい店員の一人が扉を開け、細い目を更に細くしてにこやかに声をかける。きちんとした白のワイシャツに黒のベスト、ジャケット、スラックス。どうやらこの店の給仕らしい。きれいに切りそろえられたブロンドの髪を店先に灯った電灯が照らす。
「よかったら中へどうぞ」
咲は「いいんですか……でも、開店前じゃ」と遠慮するが、店員が構わないというから、咲はその言葉に甘えて中に入ることにした。
店内には暖炉があり、ぱちぱちと気が小さくはぜる音がする。深緑色とクリーム色の床に扉の色とよく似た木製のテーブルとイス、きらびやかなシャンデリア、磨き抜かれたガラス窓、漂ういい香り、暖かな空気が満ちた空間。
咲は窓際の、一番暖炉に近い席に座らせてもらった。
「少々お待ちくださいね」
店員は足早に裏へ戻ると、次はタオルとブランケットを持って現れた。
「雨がすごかったでしょう」
「あ、ありがとうございます……」
咲が礼を言うと、店員はにこりと笑った。胸元のネームプレートには見慣れない文字が書かれていたが、咲にはそれが「リツ」と読めた。
店員……リツは一礼をして再び裏に戻って行った。
咲は言われた通り髪や洋服を拭き、暖炉でしっかり温まった。早くに雨宿りができたから、あまり濡れていなかったのが不幸中の幸いだった。ブランケットを肩から羽織り、しばらくすると体の震えがなくなっていることに気が付いた。
「よかったら、どうぞ」
再び現れたリツは、手にカップを持っていた。アンティーク風のそのカップからは暖かな湯気が漂っている。
「体が温まるお茶です」
「すみません、何から何まで……」
「お気になさらず」
咲はそのお茶を一口飲んでみた。紅茶にも似た風味で、少しひりりと刺激があるがそれが血の巡りをよくするようで、本当に温まる。
「あの、つかぬことをお聞きしますが……」
「はい、なんでしょう」
「ここは、どこですか?」
咲の問いに、店内は静寂に包まれた。
「なるほど、目が覚めたら舟の中に」
咲の前には、この店「フルン・ダーク」の店長であり料理長であるアーキーが座っていた。明るい茶色の少し長い髪を一つに束ねた凛々しい印象の青年は、咲の話を聞くと傍らにいた副料理長、ソアに視線を向けた。ソアはプラチナブロンドの癖っ気を揺らし、垂れ目がちな瞳をアーキーに向け、頷いた。
「たぶん、転移者だね」
「やはりな……」
アーキーが月のような鋭い美しさだとするなら、ソアは朝日のような美しさだなあ、とぼんやり考えていた咲は、二人の言葉にハッと我に返った。
「転移者……とは?」
「たまにいるんだ。まったく違う世界からこっちの世界にやってくる人が」
そのような人々は総じて「転移者」と呼ばれる、とアーキーは言った。
「あの、元の世界へは……」
「戻れないね。皆、こっちの世界にずっといるって話だ」
ソアの言葉に、咲は「そうですか……」とうつむいた。どことなく察していたことである。咲は、覚悟しておいてよかった、と嘆息した。
アーキーは咲をじっと見ると、少し表情を緩めて言った。
「このウィント王国は、手続さえすれば転移者の身分も保証してくれる」
「そうなんですね」
「心配するな……と言い切るのは無責任かもしれないが、あまり気にし過ぎるのも体に毒だからな」
「お気遣いありがとうございます」
咲は深々と頭を下げる。どうやらほかの従業員たちもやってきたようで、店内は少しにぎやかになり始めていた。
咲はその様子をぼんやりと見つめる。ソアがにこやかに言った。
「これからディナーの部が始まるんだ」
「あ、すみません。私忙しいときにお邪魔しちゃって」
「いいんだ、気にしないで」
「とりあえず裏の仮眠室で待っていてもらおう。リツ、案内を」
「はい、分かりました」
咲はリツに続いて、厨房の横に設けられた廊下を進んだ。咲は厨房の中が気になったが、客席からも廊下からも見えず、少し残念に思った。
食糧庫や倉庫を通り過ぎてたどりついたのは、仮眠室といいながらも、普通に暮らせそうな部屋であった。店の雰囲気に似たアンティーク調の家具が置かれ、水回りもしっかりしている。
「料理長はたまに、レシピ開発で厨房にこもりきりになりますから。そういう時はここで休んでいるそうです」
「へえ……」
「あ、ベッドのシーツとか、その辺は洗ってますし、最近は誰も使っていませんから」
咲はとりあえず、閉店までこの部屋で過ごすことになった。
一通りの設備の説明を受け、咲は驚いていた。自分が元居た世界と大きく変わるところはないようだが、動力源は魔法なのだという。つくづく、別世界に来てしまったのだなあ、と痛感した。
リツが部屋を出て行ってから、咲はベットに腰掛けゆっくりと倒れ込む。ふかふかで清潔なベッドからは、ほんの少しだけスパイスのような香りがした。
「これからどうなるんだろう……」
咲はそうつぶやくと、ゆっくりと迫りくる睡魔に身をゆだねた。
雨に降られて疲れた体が眠りにつくのに、そう時間はかからなかった。
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