二代目聖女は戦わない

榎本快晴

【峠の白狼】編

第1話「やがて『不戦の聖女』と呼ばれる、まだ何者でもない少女」

 私――メリル・クラインは生まれながらにして特別かつ崇高な人間である。


 なんといってもまず血統がいい。

 私の母は数多の悪魔を討伐してきた生ける奇蹟にして、『地上の天使』とすら評される世界最強の聖女なのだ。


 さらに出生バックボーンも凡人とは一味違う。

 聖女たる母は婚姻を経ることなく、神の奇蹟によって私メリルを身籠った。つまり私の父は神そのものといっても過言ではない。


 誰もが私を『聖女をも超える聖女』と呼んだ。

 私もそう呼ばれて満更ではなかった。というか鼻高々だった。母のように数々の武勇伝を残し、未来の歴史書に名を残す偉人になるのだと信じて疑わなかった。




 ――今日、この日までは。




「貴様が、我を殺しにきた悪魔祓いか……」


 私など一呑みにできそうな大顎でそう唸るのは、見上げるほどに巨大な白狼である。


 14歳の誕生日。悪魔祓いとしての初仕事。

 つい数分前までの私は『勝利は当然として、何秒で倒せるかが問題でしょうか?』などと余裕をかましていた。

 悪魔が出没するという夜の峠道もなんのその。ちょっとしたピクニック気分で愉快ですらあった。


 だが、本物の悪魔を目にしてそんな思い上がりはすべて吹き飛んだ。


 目の前の巨大な白狼は、生物として格が違う。

 理屈ではなく本能でそう理解できてしまった。

 普通の人間が逆立ちしても敵う存在ではない。威圧感だけで全身がビリビリと痺れ、恐怖のあまり悲鳴すら上げられない。


 走馬灯のように母のアドバイスが思い出される。

 母は「よほどの高位悪魔でもない限り、私が『消えろ』って念じたらだいたい勝手に消し飛んでるのよね~」と言っていた。アドバイスのとおりに「消えろ」と頭の中で何度も高速復唱してみるが、白狼の毛一本たりとて消し飛ぶ様子はない。


 ――もしかして。

 ――私には母のような力はないのでは?


 突如として湧き上がる絶望的な疑念。そんな満身創痍の私の背後では、


「さあメリル様! どうかその御力をお示しください!」

「邪悪なる悪魔に死を!」


 私の初任務を拝もうとついてきた教会所属の下っ端たちが、松明を掲げて意気揚々と囃し立てている。

 なんて最悪な連中だ。こんなにもか弱い少女わたしの背後に隠れながら相手を挑発するなんて。恥というものを知って欲しい。


 と、そこで白狼が身じろいだ。


「メリル……? その名、聞き覚えがある。まさか貴様……あの忌まわしい女の娘か?」

「えっ、あっ」


 声にならない震え声を発する私の背後で、下っ端どもが吼える。


「いかにも! メリル様こそは聖女様の娘御にして、貴様ら悪魔を滅ぼす神よりの使者である!」

「怖気づいたろう悪魔め!」

「命乞いをしても無駄だぞ! メリル様は悪魔の言葉になど惑わされん……!」


 黙れお前ら。これ以上、この化物の機嫌を損ねるな。

 私は怒りと恐怖が最高潮に混ざりあって、ほとんど紫色の顔色になっていた。


「さあ悪魔よ! 数多の人間を殺めた罪、その命をもって償うがいい!」


 そのとき。

 下っ端の一人が発したその言葉に対し、白狼の悪魔はわずかに歯噛みした。


「罪、か。どうせ何を言おうと聞く耳は持たんのだろうな。貴様らは……」


 その呟きには、どこか弱弱しい響きが滲んでいた。

 息が詰まるような威圧感すら、一瞬だけ忘れさせるような。


 ――だから私は、反射的にこう叫ぶことができた。


「聞きます!!」


 びしりと手を挙げて、震えを必死に隠しながら。

 私は全身全霊の勇気を振り絞って、白狼にそう訴えた。


「いっ、言いたいことがあるなら! この私が……メリル・クラインが余さず聞いてあげましょう! 戦うのはそれからでも遅くありません!」


 勝機ゼロの絶望的な戦いを一秒でも先延ばしにしようという私の抵抗だった。

 同時、私の背後で下っ端どもが一気にざわめく。


「メリル様! いけません! 悪魔の囁きに耳を貸すなど……」

「情けは禁物です!」

「今すぐ浄化を!」


 ぶちっ、と私のこめかみで血管が切れる音がした。


「お黙りなさい!! たとえ相手が悪魔であろうと何であろうと、交わせる言葉があるならまず言い分を聞くのが人としての道理というものでしょう!」


 目を血走らせて下っ端どもに吼える。悪魔は恐ろしくて仕方ないが、人間が相手ならいくらでも偉そうに振る舞える。幼少期からそういう風に育ってきた。


 私は恐怖を押し殺して、白狼の瞳をまっすぐに見返す。


「さあ。話ならいくらでも――日が何度でも明け暮れるまで聞きましょう! 存分にお語りなさい!」


 白狼は値踏みでもするように私をじっと睨んできた。

 長い、長い沈黙。


 今この場で背中を向けて全力疾走すれば助かる可能性はどのくらいか――私がそんな勘定を巡らせ始めた頃、


「我は誰も殺していない」


 吐き捨てるように、白狼がそう言った。

 それから獰猛に唸って爪牙を尖らせる。


「どうだ。到底信じられまい。悪魔の虚言と嗤うだろう。だが、我は決して――」

「分かりました! では、徹底的に調査します!」

「――は?」


 白狼が呆気にとられたようにその大顎を半開きにする。


「そこまで仰るなら無碍にはできません! この私が、なんとしてでもあなたの無罪を証明してみせましょう!」


 そして私は、一縷の望みに懸けて叫んだ。


「ですからこの場は一旦! お互いに矛を収めるという形でどうでしょうか!」


 これが後に『不戦の聖女』と呼ばれることになる――私の初仕事の幕開けだった。

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