第2話 中学校2年生


 結花と僕は幼馴染だ。

 母親同士が友達だってこともあって、保育園のときから一緒に泥だらけになって遊んできた。

 中学に入っても、関係は変わらない。

 冷やかすヤツもいたけど、僕たちがあまりにあっけらかんとしているせいか、冷やかし続けられることもなかった。

 だって、痩せっぽちの胴体から、ごぼうみたいな手足が生えている姿を覚えているからね。そういう意識なんて、持ちようがなかったんだ。



 中学2年の夏がきた。

 僕は、真鶴のおじさんのうちに遊びに行く。期間は1週間。これはもう、小学校の時からの恒例行事だ。

 おじさんのうちは海が近い。

 朝の涼しいうちに海で泳いで、砂浜が混みだす暑い時間には冷房をかけて勉強し、夕方は釣り糸を垂らして晩御飯のおかずを確保するってのが日課なんだ。


 おじさんは救急救命医で、家にいたりいなかったり、生活が極めて不規則だ。

 だから、簡単だけど普通の食事ってのを僕が作っておじさんの帰宅を持つってことで、僕とおじさんはWin-Winの関係なんだよ。

 そのために、一週間分のレシピのレパートリーを、僕は小学校2年にして母さんから仕込まれた。


 で、さ。

 豆腐とわかめの味噌汁、ほうれん草のおひたし、焼き魚とごはんの組み合わせ程度の食事を、おじさんは涙を流さんばかりに喜んでくれた。

「連勤が長くなるとな、寿司の出前なんか一日おきになって、エサ食わされてる感が出てきちゃうんだ。寿司なのにだぞ!

 ピザなんか、もっとキツイんだ!」

 そう言って、ほうれん草のおひたしなんか、翌日分までの3束分をむさぼり食べた。

 僕なら、ピザと寿司の繰り返し、嬉しいけどな。大人ってのも大変だ。


 でも、ここまで喜んでもらえると僕も嬉しいからね。

 小学校3年のときには真鶴の魚屋さんでいろいろ教わって、さらにレパートリーを増やした。

 こうなると、おじさんも来年も来いってことになって、恒例行事になったんだよ。


 で……。

 小学校5年のときから、結花も一緒に来るようになった。

 結花の母さんが急に盲腸の手術をするってことになって、友達である僕の母に「せめて結花にご飯だけでも作ってくれないか」ってS.O.S.が来たんだ。


 ちなみに、「結花が、自分で自分の分を作ればいいじゃん」という僕の意見は、即時却下された。

 盲腸の手術が決まっている人が、娘に料理を教えている余裕なんかないって。

 こうしている今だって、痛がっているってさ。


 で、その相談は僕の母からその弟で、しかも医者であるおじさんに丸投げされて、「じゃ、一緒に勉強してきなさい」って一言で僕たちは送り出された。すべては、たった1時間で決まったんだよね。

 まぁ、それだけ結花の母さんは痛がっていたってことだし、結花の父さんは料理ができないってことなんだろう。


 行くのは電車で放り出される。

 とはいえ、東京上野ラインのグリーン席に座っていれば、乗り換えもなしに自動的に着いちゃうんだけどね。

 おじさんは仕事を終えて、18時頃には真鶴駅まで迎えに来てくれる。

 遊びも生活も翌日からが本番だ。


 でもって、海が近いという生活に結花はいきなり魅了されたみたい。

 遊びだけじゃなく、ご飯まで。鯵の南蛮漬けが美味しいって。

 そりゃそうだ。

 さっき僕が、バケツ一杯釣った豆鯵だもん。鮮度が違うよ。一度くらいは、塩焼きにできる大きいのも釣ってみたいけどさ。


 翌年、夏休みが始まると、結花は毎日僕のうちに来て母さんの前でもじもじした。

 その理由を母さんが見抜いて、ま、あとはそのままとんとん拍子だ。

 だから、結花との真鶴は今年で4回目。


 ただ、今年はいきなりつまずいた。

 上野東京ラインの電車に乗って、東京駅を過ぎたところでおじさんからメール。

『国道1号線で大事故。

 とりあえず、予定時間を4時間ずらしてくれ。なにがあっても迎えには行く。

 真鶴駅で待っていてくれ』

 だって。

 救急救命医が、こういうときに仕事を放り出すなんてできないよね。


 結花と相談して、でも、いい手なんか浮かばないし、横浜駅を過ぎて今も電車は目的地に近づき続けている。

「小田原で途中下車して遊ぶ?」

「うーん、去年の帰りに小田原城は寄っちゃったよ」

 そうだった。

 結花の言うとおりだ。


 それに夏の日は長いとはいえ、小田原着は17時過ぎにはなっちゃうし、中学生が大荷物抱えて夜の繁華街をうろうろするのは怖い。補導なんかされたら、さらに面倒くさい。

 僕、ちょっと困ってしまった。


「じゃあさ、真鶴の手前の駅で海を見ない?

 すごく近いところに海が見えるよね、あそこ」

 今度は結花の提案。

「うん」

 僕、頷く。

 そうだね。天気はいいし、きっときれいだと思うな。



 電車を降りて、ホームから海を見下ろす。

 降りた人はたくさんいたけど、みんな足早に行ってしまった。でも、僕たちには時間はたっぷりあるから、急かされる気分なんかまったくない。

 だから、跨線橋に登ってからもゆっくりと景色を眺めていたんだけど、おかげで細い道が海に向かって下っているのを発見できた。

 結花の顔を見たら、僕と同じものを見ていたみたい。

「行ってみる?」

「行く」

 僕の提案に、結花は一も二もなく頷く。


 乗り継ぎの電車の時間を確認して、僕たち、意気揚々と歩き出した。

「ゆっきー、駅の自販機でペットボトル買ってこ。

 水分は大切」

 もうね、冒険だからさ。

 僕の感覚、森の中を走り回って秘密基地なんか作っていた頃に戻っちゃって、呼び方も戻っちゃうよ。



 誰もいない海辺は、ごろごろと20cmから30cmくらいの石で敷き詰められた感じになっていて、ところどころに僕の背丈くらいの大きな岩が転がっていた。

 結花は手近な岩に登ると、そこに腰掛けて海を眺めだした。

 僕も、その隣の岩に登って海を眺める。

 ここまで風景が開けていると、開放感がありすぎる感じだな。同じ2人きりでいるにしても、昔、結花と作った秘密基地はとても狭かった、なんて思う。


 はるか遠くに江ノ島が見え、さらにその先にあるのは三浦半島だろうな。

 ちょっと南に目をやれば、初島、大島と果てしなく続く海と水平線。

 海から吹き寄せる風が強くて、蚊もいない。

 ペットボトルのお茶で喉を潤しながら、僕と結花、たぶん1時間は馬鹿話して笑っていた。


 もう18時半は回った頃だろう。夏だというのに、西に真鶴半島を背負っているせいか、明るさが薄れていくのが早い。

 海の色が、刻々と鮮やかなブルーから鈍色にびいろに変わっていく。

 これはこれで、すごくきれいだよね。

 思わず、無言になっちゃうよ。



「あ、背中にフナムシ」

 あまりに無言でいたせいか、結花の背中に這い登る黒いヤツ、発見。

「ひゃあっ!!」

 とんでもない声を上げて、結花は飛び上がった。

 僕も立ち上がって、結花の岩に飛び移る。

 僕、フナムシを叩き落して結花を守ろうと思っただけなんだよ。

 でも、結花、そのせいか岩から落ちそうになって、僕、それを必死で後ろから抱きとめて……。


「大丈夫?」

 返事がない。

 結花、凍りついたように動かない。


「大丈夫?」

 もう一度聞いた僕、そのとき初めて気がついた。

 僕の左手、結花の右の胸を……。

「ひゃあっ!!」

 とんでもない声を上げたの、今度は僕。


 小学生のとき以来のマジの悲鳴だ。あのときは、目の前にいきなり蛇を突きつけられたんだった。結花が自分で掴まえたやつ。

 結花はフナムシはダメでも、蛇は触れる人なんだよ。僕はそれ以来、蛇はダメになったけど。



 焦って身を引いて、岩から転げ落ちそうになる僕を今度は結花が支えた。

「ごご、ごめん」

「……わざとじゃないの、わかっているから」

 動転して気の利いたことも言えないでいる僕に、結花、視線を逸らせて小声で言った。


 その瞬間、僕の中で、結花は幼馴染のダチから女の子に属性が変更された。

 結花、ひょっとして相当に可愛い?

 改めて心臓がどきどきし始めた。


 もう一度「ごめん」って呟いて、逃げるように岩から降りようとする僕を結花は引き止めた。

「日が沈むまで、一緒に海を見よ」

 僕、どうしていいかわからなくて、でも、わからないから頷いてしまった。


 狭い岩の上、膝から下を下ろして座る僕。

 その僕の左肩に背を預けて、同じように座る結花。

 僕の左手は、結花の脇の下を通って、おなかのあたり。

 結花、その左手を知恵の輪のようにいじりまわしている。

 ときどき、関節を逆に曲げられるのが痛い。

 でも、僕、なにも話せなかった。


 でもさ、この沈黙、不思議と重くなかった。むしろ、心地よい。

 で、僕はどこまで海を見ていたんだろうね。

 いつのまにか、僕の目は結花の横顔に見とれちゃっていたんだよ。僕の左手も、さっきの膨らみを覚えている。いつの間にこんなにきれいになっていたんだろう、結花は。

 ああ、満ちてきた潮の波の音より、僕の心臓の音の方がうるさい。



 ついに、日が沈んで薄暗くなってきた。

「駅に戻ろうか」

 そう声を掛けた。本当に真っ暗になってしまったら、急な坂道を登るのは大変だろうからだ。

 本当はもっとこうしていたかったんだけど。


「……花火」

 結花が、返事にもならないことをつぶやく。

 うん?

 僕、結花の視線の先を追う。


 遠く三浦半島のどこかで花火が上がっていた。

 1つ、また1つ、と。

 距離がありすぎて、小指の爪くらいにしか見えないし、どれほど耳を澄ませても、波の音に紛れて音も聞こえない。

 そうこうしている間にも周囲はさらに暗くなり、花火の明るさは増していく。

 最後には波音に囲まれた真っ暗な空間の中で、その小さな花火のみが僕の視界に存在していた。


「私、この花火を一生忘れないよ」

 結花がつぶやく声が、僕の聴覚のすべてを満たした。

 


 そうだね。

 どこまでも鮮明な、視覚と聴覚を満たしたもの。

 僕だって、それを忘れない。きっと忘れられない。

 小さな花火、小さな声の存在感が、消えない記憶になるんだ。



 僕は、左手を結花から取り返して、そのお腹のあたりを抱く。

 そして、改めて気がつく。

 僕より痩せっぽちでも柔らかい。一緒に育ってきたというのに、結花と僕はいつの間にかこんなに違う。

 結花は女子なんだ。


「僕もだ。

 ……ねぇ、結花。

 これからも、ずっと一緒にいような」

 初めて名前で呼んだよ、僕。

 結花、なにも言わず、こくんって頷く。

 僕の左肩にかかる結花の重さが、ちょっとだけ増した。


 僕にとってはもうそれだけで、人生の宝物のすべてを手に入れられた気がしたんだ。




あとがき

自覚……、ですね。

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