漆黒の翅ばたき
大学の卒業旅行でインドネシアのヌサドゥアへ行ったとき、私は生理になりビーチでひとり暇を持て余していた。黒い髪にショールを巻き、エスニックドレスとヘナアートで全身を包んだ美しい女性が近づいてきて、時間があるならヘナをやらないか、あなたはとても肌がきれいだからきっと宝石のようになる、というようなことを片言の英語で私に伝えた。旅行客を狙った口車かと身構えたが、バケツの中に溶いてしまったヘナがあり、乾いてしまうから好きにやらせてくれるならこれを旅の思い出にあなたにあげるというようなことを言ったので、私は羽織りを脱いで上半身を預けた。
彼女は砂の上に〝Ni Wayan Wati〟と書き、「Wati」と繰り返して胸を差した。名前を聞かれているのだろうとわかったが、ケイコという音はいかにも女性らしくなく思えて、私は「ケティ」と答えた。ワティはそれを復唱してから、私に腕を出すように言った。
彼女の両腕には甲州印伝の漆のような文様がびっしりと張り巡らされていて、すぐに私の腕も熱射で蕩けた鉄さびのように赤茶く浮かび上がっていった。それは蕁麻疹みたいで背筋がぞわりとした。
孔雀、蓮の花、曼荼羅、太陽、月。手足の大部分に染められた細かな図案を示されたとき、「耳なし芳一ってこんなふうだったのかな」なんてことを考えた。それはきれいというよりどことなく気持ち悪くて、アートとして見ることができず、本能が直観的にそれを畏敬の対象として捉えていた。それはわずかな悍ましさと、狂気を孕んで見えて、これは「守護」なのだと感じたのだ。
ヘナは女神ラクシュミーが愛した装飾、そうあとで知り、腑に落ちた。そういう代物なのだと。これは神の真似事、手軽に手を出してしまえる神の領域なのだと。
私の半身の上で、美しい羽ばたきを繰り返すワティの漆黒の睫毛を見つめながら、耳なし芳一は、どうして耳なしになったんだっけと考えた。ワティの笑顔が私を掴み、彼女の指先から、溶かされたヘナが私の静脈へ浸蝕していき、内へ内へと遡ってくる。
彼女はなぜ私に護符が必要だと知ったのだろうか。
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