イカロスの翅
私は階段を踏み締めながら歩く。
以前までの私ならば、きっと行動することも、考えることさえ放棄していただろう。かつて盲目だった目は開き、地を這うことを捨てた今の私が在るのは全てが彼のお陰だから。
彼はとても優しくそして不思議な人だった。
この地に蠢くだけの存在だった私を見出だし、その大きな手を差し出すと、横たわったままの私を自らの足で立たせてくれた。
強い目の輝きと、ゆったりと包み込む温かい声が、私に力を与えた。警戒しながらも、ゆっくりと、だけど確実に、私は自分自身が纏った殻を内側から蹴破り始めていた。
部屋中の窓を開け放つ。目が眩むほどの光で息も出来ない。部屋に舞う埃はキラキラと、見たこともない宝石の輝きを連想させる。
彼はいつだって自然体でいた。陽溜まりが暖かく、木陰が涼しいと思う。昇る朝日に何かを期待し、沈む夕日に物寂しさを感じる。
私の中の歯車はしっかりと今噛み合い、互いに干渉し、心は音を立てて動き始める。
「ほら、朝だよ。君のための真っ白な朝だ」
そうか、これが白。足元しか見えなかった世界は広がり、影ばかりの味気ない色合いは極彩色に染め上げられ、風景から溢れ出す音色に耳を傾けると、薄っぺらだった私が色みを帯びていく。いつしか私を覆った硬い殻は粉々に砕け、翅を広げるまでに成長を遂げた。
「美しいかどうかに価値が在るのではなく、君らしく在れるかどうかに価値が在るんだ」
砕けた殻をベールのように纏った私は決して美しくはない。繭を解くように不器用に広げた私の翅は決して美しくはない。温かい指が鼻先に触れる。何気ない仕草のひとつひとつが私の心を捲いていく。君は美しい。愛しい声のひとつひとつが私の時を刻んでいく。
キラキラと輝く空気を深く吸い込む。私は息を吹き返した気分。全ては鮮やかで、時間は坂を転げ落ちるように早く、彼の目線の高さまで昇りつめるのに気持ちだけが急いている。私は生まれたての幼。彼によって新しい脈動を吹き込まれたムーブメント。
彼はいつだって不器用にもがく私を諭しながら歩幅を揃えてくれた。そう、これが幸せ――その果実から溢れる甘酸っぱい味わいに目が眩み、躓きそうになっても、彼は私の肩にその大きな手を添えて見守る。彼の心は常に私と在り、そして私の心は常に彼と在った。
ふと気付くと、私の目の前には真っ白な螺旋階段が、遥か上空の更に天まで伸びている。「一緒に昇ってくれるかい?」その言葉が、私の中に流れる血液の全てを沸騰させた。
ええもちろんよ。青空に真っ直ぐに伸びる螺旋階段の先を見つめて、私は力強く頷いた。
私が広げた翅は決して美しくはない。私の姿も決して美しくはない。けれど、彼はそんな私の負い目など気にはしない。泥臭くもがいても、彼はそのままの私を愛してくれる。
私たちは歩幅を合わせながら、真っ白な螺旋階段を昇った。踏み出すたびに光が波紋のように溢れ、広がっていく。心地好い風と柔らかい陽射し、綿飴のような雲は穏やかに流れても、幸せを感じる時間だけは、それに反するように坂道を転がり落ちるほど早い。永遠を約束しても、その永遠が一瞬にして流れ落ちてしまう滝のようだ。
彼と過ごすどんな瞬間も失わない。私は映画のピンナップ写真のように全てをアルバムに収めた。彼と交わしたどんな言葉も、私はボイスレコーダーに収めた。そうして私は彼色に染まり、自分の姿や翅の美しさなど気にもしなくなっていた。そう、それが彼の導き。
遥か長く開くことのなかった翅を、破れることも厭わずに大きくはためかせ、一心不乱に彼に寄り添う――それが私らしさだと気付いたとき、私はようやく彼の目線に追い付いた気がしていた。そんな喜びに溢れた私を見ながら、彼はそう今も、優しく微笑んでいる。
全てが幸せで眩しい。何処からか私たちを祝福する緩やかで優しいオルゴールの音色が聴こえてくる。そんな幸せな時間とは裏腹に、勢いを増してこぼれ落ちていく時間だけは止める手立ても見つからないままだ。
やがて、天へと続く真っ白な螺旋階段が不気味に音を立てて軋み始める。見下ろしても地上は見えず、見上げてもゴールは見えない。 ふと恐怖に襲われる。彼の大きな手が私をすり抜ける。彼は変わらず優しく微笑んだまま。どうして⁉ いつしかオルゴールの音色は儚くもその速度を緩め、そして止まった。
いつの間にか螺旋階段には私ひとり。全てが夢だったように私だけが取り残されていた。
ありがとう。私は呟き、歩き出す。軋む螺旋階段は崩れ始め、きっと私はその先へ辿り着くことは出来ない。それでも目指す何かを見つけられたこの旅は本当に幸せだった。
緩やかに鳴り止んでいくオルゴールの音色と、転げ落ちるほど早い幸せな時間の中で。
《了》
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