第8話 老人の物語

 涼しく爽やかな風が、優しく吹いている。

大きな木の木陰があるベンチには、老人と若い男性が座っている。

 2人はその風に癒されながら、老人の用意した冷えたお茶と美味いお菓子を手に、語らい合っている。

 語らい合うと言うより、老人の話を聞かされてると言うのが正しいかも知れない…。

どんな話を聞かされてるのか、ちょっと耳を澄ませてみよう…。


「ふふふ、余程お腹が空いていたのか、それとも君の好きなお菓子だったのかな?パクパク食べて止まりそうにないね…」

 老人の言葉に彼は赤面するのだが、無意識に手がお菓子へと伸びてしまう。

「す、すみません…。余りにも美味しくって…それに、朝から何も食べて無かったもので…もぐもぐ…」

「あっはは、両方だったみたいだね。でも朝から何も食べて無いのなら尚更、食が進むってものだよね。本当、遠慮はしなくて良いから、満足いく迄食べておくれよ?未だまだ沢山持って来ているからね」

「あっはい。では遠慮なく」

「それじゃ、私の身の上話しでもしても良いかな?」

「はい…」

「ありがとう…それじゃ早速…。私の子供の頃から話そうかな…。私の子供の頃はね…」


 老人の、子供の時代の話が始まる。

 彼が幼い頃、家庭は荒れていて、父親の暴力で母親は蒸発し、父親の憂さ晴らしを一身に喰らい、その上イジメで心身共にボロボロだった…。

 楽になるなら何時死んでもいいとさえ、彼はそう思っていた…。

 だがある日、耐えかねた彼は家を飛び出し、ゴミ捨て場のゴミの片隅に蹲り、声を殺して泣いていたら、一人の少女が彼に声を掛けてきた。

「ねぇ何故そんな所で一人泣いてるの?それにその怪我…どうしたの?大丈夫?…」

 誰にも見つからない様にと、大きなゴミに隠れていたのに、彼を見つけた少女は、彼の姿を見て心配そうに話し掛けてくれた。

 自分より幼く見える少女なのに、何故かは分からないが、大人の女性に見えた気がした彼…。

 声を殺して泣く彼にそっと抱きつき

「痛いの?誰に殴られたの?誰に酷い目に合わされたの?」

 彼を気遣う優しい抱擁に、押し殺していた声が溢れ出し、声を上げて泣いた。

「さぁ此処から出ましょ?…酷い傷…。先ずはその傷を手当しないとね…」

 それ以上何も言わずに彼の手を引き、少女の家へと向かう。

 少女の家に着くと

「傷の手当ての前に、汚れた体を綺麗にしないとね…。今、用意するから少し待ってて」

 と、玄関に彼を残し、バタバタと家の奥へと入って行く。

 しばらくして奥からぬるま湯を張った桶とタオルに、傷の手当て用の救急箱を手にし

「お待たせ〜、玄関の三和土たたきに座ってね。それじゃ、汚れた体を綺麗に拭き取るね…」

 傷口にしみない様に、優しく拭き取る少女。

 彼は抱擁力が強い少女の優しさに触れ、今迄された事の無い慈愛に感動し、涙がポロポロと、頬を伝わるのだった…。

 それを勘違いした少女は

「痛かった!?大丈夫?…ごめんね、下手くそで…。もっと優しく拭き取るね…」

 と、謝ってくる…。

「うぅん、違う…痛く無いよ…。今迄誰からも、こんな事された事無かったから…嬉しくて…」

 初めてまともに喋った彼。

 その事に驚くも

「痛くは無かったんだ…良かった…。それよりも…気になったんだけれど…聞いて良い?誰からもって言ったけど、それ…本当?」

 少女が抱いた疑問…。

 それは至って普通に思う疑問だ…。

 その疑問に彼は…

「…本当…だから逃げて来た…。無我夢中で逃げて来た…」

 少女は、“誰にも優しくされて無かったのか”と聞きたかったのに、返ってきた言葉は、“無我夢中で逃げて来た”だった。

 その言葉を聞き、逃げなくてはいけない程の仕打ちをされていたのだと理解する。

 “私が彼を助けなければ”と思う、強い使命感が少女を動かす。

「これから先、私が貴方を守ってあげる。これから先、私が貴方の傍に、ずっと居てあげる。これから先、私が貴方の味方になってあげる」

 真剣な眼差しで、少女は彼に誓う。

「えっ…?」

 今迄誰にも言われた事のない言葉と優しさが、彼には信じる事が出来ず、疑いの目で聞き返すのだった。

 そんな訳は無い、出来ない約束はしないで欲しい…と、彼は思ったのだ…。

 そんな彼の思いをたった一言で理解した彼女…。

「今迄酷い目に合ってきたものね…信じられないわよね…。でもね、私は絶対裏切らないから…。もし裏切ったのならこの棒で、私を気の済む迄殴ればいいわ…。貴方のその痣の様になる迄、殴り続けていいから…。だから今は私を信じて欲しいの…」

 と、玄関に置いてある箒を差し出す。

 差し出された箒を持ち、何を言ってるんだろうと呆気に囚われながらも、何故か少女の言葉が心に染み渡るのだ。

「もし…もしも貴方が良ければだけど、此処で一緒に暮らさない?」

 突然の誘い。

 一緒に暮らすと言われても、少女の家族の了承を得ても無いのに、そんな事は出来るのか?とも思う彼。

 更に言えば、必死で見知らぬ場所へと逃げて来たのだが、勝手に居なくなれば、最悪の父親に必ず見つけ出されるに違いない、そうなれば、今知り合った少女にも迷惑を掛けるとも思った…。

 だが

「この家に住んでるのは、私一人だけなの。此処は特別な場所だから、貴方を苦しませるモノに見つかる事も無いから…」

 彼の思ってる事に対して、次々と答える少女。

 何も言っていないのに、ポンポンと答える少女に、驚く事しか出来ない彼。

 そんな彼に

「ねぇ貴方は何歳?」

 と、聞いてきた。

「ぼ…僕…8歳…。そっちは何歳なの?」

 未だ貴女とか、君と言えないのは、年齢的にも若過ぎるからだろう。

 そんな幼い彼に

「…本当は言いたくは無いのだけれど、貴方には正直に答えるわね。私の歳は18歳なの…」

 自分よりも10歳年上だと言う。

「えっ!?」

 自分より幼く見えるのに、10も年上だとは信じられない…。

「ふふっやっぱりそう言う反応するわよね…。でもね本当なの…。私は生まれつき成長が遅いみたいで、実際の年齢より若いの…。だからそれを恥じた両親がね、この家に私を一人で住まわせているの…」

 少し哀しそうに話す少女を見て、本当の事を話しているのだと思った彼。

 それには、ちゃんとした理由があった。

 大きな広い家なのに、少女以外の人の気配はなく、玄関に有る筈の、家族の履き物が一つも無いからだ。

 だから少女…彼女の言った内容は、本当なのだと思ったのだった。

「…それじゃ…僕からすれば、お姉さん何だね?…それで合ってる?」

 彼が“お姉さん”と言った事で、自分の言った事を嘘じゃ無いと分かってくれた事に、とても嬉しく思えた彼女。

「うふふ…そうね、お姉さんで合ってるわ。信じてくれてありがとう…。でも、これからずっと一緒に居てくれるなら、お姉さんじゃなく、名前で呼んで欲しいの。貴方が一緒に居ても良いと決めたのならね、私の名前、彩夏あやかって呼んでくれる?」

 彼女の名を聞いた彼は

「………彩夏……」

 と、名を呼んだ…。

「……名前……ありがとう。これからずっと一緒に暮らして、そして居てくれるのね」

 名を呼んだ事により、彼女と一緒に暮らす事が決定したのだ。

 正直彼には未だ、そこ迄深く考えては無かったのだが、今迄自分の置かれた現状を思えば、この選択肢で良かったのだろうとも、そう思えていた…。

「一緒に暮らしてくれるなんて、とても嬉しいわ〜。…えっと…名前…。貴方の名前を聞くの、すっかり忘れてたわ…ごめんなさい、とても大切な事なのに…。で、貴方の名前は何て言うの?教えてくれる?」

 しっかりしているかと思えば、ちょっと抜けてる彼女。

 何故か、それが面白くて

「ブハッ…アハハッ」

 と、吹き出してしまう。

「あ〜笑ったわね〜!…プッ…ウフフッ…そりゃ〜笑っちゃうわよね〜。でも嬉しいなぁ〜、やっと笑ってくれたもの…。で、名前、教えてくれる?」

 彼が笑った事を喜んでくれる彼女。

 その指摘にハッとするが、喜ぶ彼女の優しい笑顔が何よりも嬉しくて、真っ赤になりながらも

「ぼ、僕…僕の名前は…真帆露まぼろ。真帆露って言うんだ…」

「真帆露ね…分かったわ、これから宜しく…真帆露…」

 そして、この日から二人の生活が始まる。


 二人が出会ってから、十数年の時が経った…。

 彼は彼女のおかげで、立派な青年となり、虐待に怯えていた面影はなく、端正な顔立ちと、背は高くはないが、引き締まった肉体美の持ち主となっていた。

 彼女もまた、彼と出会ってから、人よりも成長スピードが遅いと思われていたが、それも早まり、ゆっくりではあったのだが、美しい女性へと変貌を遂げている。

 この十数年の間に起きた事と言えば、彼の父親は憂さ晴らしが出来ず、酔った勢いで絡んだ相手によって殺害された事。

 彼女の両親も、住んでいた別宅が火災により全焼し、焼死体として発見された事…。

 お互いしか頼る者が居ないなか、彼は彼女の強い勧めで小中学だけではなく高校迄、卒業する事が出来た。

 卒業と同時に就職し、そして彼女と結婚する…。

 会社勤めをしてから直ぐに、子宝にも恵まれた彼は、懸命に働いた。

 二人目の子供を彼女が身籠った時、少しでも裕福になる為に独立し、事業を拡大させる為、更に懸命に働いた。

 それは全て、彼女が彼にくれる、無償の愛情に応えたいと思う、彼の純粋な気持ちからだった。

 その思いが届いたのか、順調に事業は拡大していく。

 全てが順調で、愛する妻と子供と過ごせる事が嬉しく、この幸せは、ずっと続くのだと感じていた彼。

 それも全て、彼女が彼を見つけてくれたから、約束を守ってくれたからなのだと思い、今度は自分が守る番なのだとも思えていた。

 なのにその思いは、あっ気なく砕かれてしまう…。

 二人目の子供が産まれて直ぐ、彼女に病魔が襲う。

 衰弱していく彼女。

 ゆっくりと成長する彼女なのだが、年齢は彼より歳上。

 実は彼女の実際の年齢は、彼より30歳も歳上だった。

 本当の事を彼に言えば、不気味がられてしまうと思い、嘘をついていたのだ。

 裏切らないと言ったのに、既に年齢を騙していた事が、彼女にとって許し難かった…。

 その上成長速度が遅いという、遺伝子異常での負担があったのか、二人目の子供を授かった時には、病魔が彼女を蝕み、子が産まれた時には憔悴しきっていた。

 これは彼に、ずっと偽り続けていた報いだとも思った彼女。

 その罪悪感を抱く彼女の心の負担が、更に病状を加速度を上げて悪化させていく。

 そして遂に、最後の時が訪れようとしていた…。

 衰弱した彼女の治療の為、入院している個室にて彼女は言う…。

「真帆露さん…ごめん…」

「ごめんって、何を謝ってるんだ…。君が謝る事なんて、何も無」

「それがね、有るの…謝る事…有るのよ…」

 言葉を遮る彼女。

「えっ…彩夏、一体何を…何を謝るってんだい…?」

「裏切らないって言ったのに…私、最初から嘘ついてた…」

「嘘?」

「そう嘘…。真帆露さんには、10歳歳上って言ったけど…本当は30歳歳上なの…。騙していてごめんなさい…」

 本当の年齢を聞いた彼は

「嘘?…何処が嘘なんだい。僕が聞いたのは30だよ?嘘だと言ったけど、嘘なんてついて無いじゃないか…」

「真帆露さん…」

 彼の優しい嘘…。

 その優しい嘘に、彼女は心揺さぶられ、心に温もりを感じながら涙を流した…。

「どうしたんだい!?辛いのかい?苦しいのかい?」

 彼女の体を心配する彼は、耐え難い痛みでも有ったのかと、狼狽えてしまう…。

 どこ迄も優しい彼の気遣い。

 止まらない涙を拭いながら

「違うの…貴方の心が嬉しくて…涙が…涙が止まらなくなっちゃった…だけなの…」

 そう言いながら、真帆露に向けて手を伸ばす彩夏。

 その手を取り

「僕の心がかい?そんな涙を流す程のモノじゃ無いよ…。だから泣かないでおくれよ…。君は笑顔が似合うんだ…。だから笑っていておくれよ…。それに、僕は君の心にずっと救われて来たんだ。僕の方が、君の温かい心に涙が止まらなかったんだよ?あの日あの時あの場所で、傷ついた僕を見つけてくれた君は、僕の守り神の様に思えていたんだから。その僕の守り神さんを今度は僕が、守ってあげるよ。だから今は僕を頼ってよ…お願いだ…」

 彩夏の手を握り、真帆露が守ると力強く言う。

 あの日あの時あの場所で、彼を見つけた事に彼女は、自分と運命の神に感謝するのだった。

 真帆露と出会えた事は、彼女にとって幸運以外の何モノでもない。

 何故ならば、自分の奇怪な体質の所為で、生涯一人で生きて行かなければならないと、そう思っていた彼女。

 そこに彼、真帆露が現れ、彼女の人生が変わった。

 それは真帆露にも言える事でもあった。

 お互いがお互いに必要な存在なのだと、掛け替えのない存在だったのだと思えた時、不思議な縁を運んでくれた運命の神の存在を感じ、心から感謝する彩夏だった。

 感謝しながらも、これから先の事を思うと憂いてしまう…。

 真帆露の手を握りながら

「真帆露さん…約束を守れなくてごめんね…」

「ごめんだと?…な、何をまた突然言い出すんだい…止めておくれよ、そんな言葉は聞きたく無いよ、聞かせないでおくれよ…」

 そう言いながら、彼女の握る力が段々と弱くなって来るのが分かった彼は、彼女の代わりに強く握り返す。

 その行為から彼の悲痛な思いを理解する彼女が、彼に向けて最後の言葉を語る…。

「ずっと貴方を守ると言ったのに、ずっと一緒に居てあげると言ったのに…その約束を守れなくてごめんなさい…許し…」

「止めろ!それ以上何も言わないでくれ!…お願いだ…お願いだからもぅ何も…言わないでおくれよ…頼むから…彩夏…」

 今迄声を荒げた事が無い彼だったが、この時ばかりは感情を剥き出しにし、涙を流しながら初めて怒鳴ってしまったのだ…。

 その事に驚きながらも、自分の事を思って泣いて怒鳴ってくれた彼の心の優しさに、深い愛情を感じて嬉しくなる彩夏。

「ありがとう真帆露さん…。貴方に出会えて…私は…幸せ…だっ…たわ……。もし…生まれ変われた…なら…今…度は……わ…たし…を見つけて…くれ…る?……。それが最後…の…お…ね…が……」

 これが彼女の最後の言葉となった…。

 握る手も、どんどん冷たくなっていく…。

 願いを残し、彼女は彼に看取られながら、静かに息絶えた…。

 その現実を受け入れられない彼は

「おい…彩夏…。おい彩夏ってば…!何勝手に眠っちゃうんだよ…。ずっと一緒に居るんじゃ無かったのかい?…さぁほら起きて起きて…。なあおい!起きておくれよ!…起きて…くれよ…。じゃないと…僕の気が済む迄…箒の棒で殴っちゃうぞ?だからさ…起き…うぅ…起きておくれよ…彩夏…。なぁ彩夏…うぅぅ…彩夏…彩夏……」

 返事は無く、手を強く握っても握り返さない彼女に、目を覚まして欲しいと言い続ける真帆露だった…。

 悲しい現実を受け入れられない真帆露だったが、彼女が残してくれた宝物を守る為にも、今はその悲しみを受け止めようと、残された幼い子供達の為にも、彼女の死を受け入れる事にした。

 そして彼は思い誓う。

(君が願ったのなら、その願いを叶えるよ…。どんな風に生まれ変わっても、僕が絶対に君を見つけてあげるよ。必ず…必ず見つけてあげるからね…。だから君も必ず生まれ変わっておくれ…彩夏…)

 彼女への誓いを胸に、彼は懸命に生きて行く…。

 また幼い二人の子に、片親だからだと不憫な思いをさせたくないと、ひたすら愛情を注ぎ、仕事も他人の何倍も働き、事業を更に拡大させるのだった。

 事業が拡大し安定すれば、社員に全てを任せる事が出来、子育てに専念する事が出来た。

 彼の頑張りが実ったのだろう、子はすくすくと育ち、他人を慰る事の出来る優しい大人へと成長していた。

 そして二人共彼の元から離れ、それぞれに家庭を築くのだった。

 孫にも恵まれた彼は、その孫が成人するのを見届けた後、家族を守ると言う自分の役目は、これで終わったのだと思えていたのだった。

 後、彼がやり残した事と言えば…

(私も随分と歳を取ったものだ…。子供も孫もしっかりと、真っ直ぐ育ってくれて良かったよ、嬉しいものだね〜…。彩夏、君が残してくれた宝物は、もっと大きな宝を増やしてくれたよ…ありがとう…。これで私の役目も終えた事だし、やっと約束を果たせられそうだ…。随分と遅くなってしまったが、必ず約束を守るからね…。だからもう少し、私が君を見つける迄待ってておくれよ…彩夏…)

 彼女が最後に願った約束を果たす事が、自分に残された最後の役目なのだと思った。

 そして家族と別れ、いつか必ず出会えると、彼女の生まれ変わりを探す旅に出るのだった…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る