第4話 会いたい人

 何度も繰り返す、素敵で温かく、そして悲しい夢…。

 その夢は、フィルムに残された映画の様に、同じ場面同じセリフ、同じ風景に、登場人物達も変わる事が無かった。

 それなのに、何度繰り返されても苦にならず、逆に毎回新鮮な気持ちで見続けられる、そんな夢だった…。

 なのに何故か、淡くて切ない夢を知らない誰かが、勝手に終わらせ様としてくる…。


「〇〇さん…〇〇さん…私の声が聞こえますか…?〇〇さん……」

「……………」

「……ダメな様ね…。今日も意識は戻らず…かぁ…。え〜っと、バイタルは安定…。点滴も順調…っと…」

(…えっ?…今日も意識は戻らず?バイタルは安定?何それ…。誰か他に、意識の無い、重症患者が居るみたいよね…。その〇〇って人みたいだけれど、大丈夫なのかしら…?でもちょっと気になるのよね…。まるで私に話し掛けてるみたいに思えるのだけれど、私は木森 桜って名前だから、私に話し掛けてる訳じゃないわよね…。きっと私が、話し掛けられてるって勘違いする程の大きな声で、呼び掛けてるんだろうね…。でも、こうも同じ事を繰り返されるのって後々辛どいから、どんな人なのか、チラッと見てみようかしら…)

 そう思った時

(…あれっ…?他にも重症患者が居る?…ちょっと待って…。それって此処は病院で、重症患者が居る部屋に、私も居るって事なの!?えっ?…嘘、どうして…)

 何だか、既視感を感じてしまう…。

(何…この感じ…。以前にも似た様な事があった様な…気がする…。えっ…これってデジャブ…?)

 何処かで同じ様な体験をしたのか、必死に考えるのだが、夢から覚めたばかりだったからか、上手く頭が働かない…。

 これでは埒が明かないと、もう少し眠れば、頭もスッキリとし、何か思い出せるかも知れないと、また、深い眠りに就こうとしていた。

 考えるのを止め、ずっと見ていた夢をまた、再度見始めた時

(そうだ!そうだったわ!…夢…夢で何度も体験してたじゃない…。えっと…夢の内容は…確か…。思い出して!私、しっかりと思い出さなくっちゃ!思い出すのよ!)

 何度も何度も繰り返して見た夢。

 どんな夢だったのかを少しずつ、少しずつ思い出した彼女…。

 何度も襲われ、消滅させられそうになった恐怖の闇…。

 その闇から、身を挺して救ってくれた、フワフワな白い絨毯…。

 彼女の澄んだ歌声で、闇を払い退け、眩く輝く光に満ちた世界がそこには在り、お伽噺の様な素敵な世界に感動した…。

 ずっと一緒に、側に居てくれる白い絨毯に、感謝の気持ちを込めて、名前を付けてあげた。

 彼女の身を守り、唯彼女の為を想い、見返りなど求めない白い絨毯の健気な心に、彼女は想いを込めて“カーリマー・アセビ”と、名前を与えた…。

 名前を付けてから、何故かカーリマー・アセビと心が通じ、光り輝く世界が更に、色鮮やかに見え、嬉しさと幸福感で満たされた彼女が思った事…。

 それは、の様だと思った事…。

 夢と思わなければ、あのままカーリマー・アセビと、心を通わせていられ、素晴らしい世界に在られただろう…。

 夢と思わなければ、カーリマー・アセビを一人残して、自分だけ現実の世界に戻る事もなかっただろう…。

 虚無の世界の存在である、カーリマー・アセビの事を想うと、胸が締め付けられてきて、増大する罪悪感に、嗚咽が止まらなくなる…。

「…アセビ…カーリマー・アセビ…嗚呼ぁぁ…嗚呼ああぁぁ…カーリマー・アセビーー!!嗚呼ああぁぁぁぁ………」

 カーリマー・アセビの名を呼びながら、彼女は泣き続けた…。

 泣き続ける彼女に気づく看護師達が

「〇〇さん!?〇〇さん!気づかれましたか!?意識はありますか!?私達の声が聞こえますか!?」

 咽び泣く彼女に、看護師達が慌てながら、意識が戻ったかを確認してくる。

 カーリマー・アセビの名を繰り返し呼びながらも、この看護師達は、一体誰の名前を呼んでるのかが、気になっていた彼女。

「うぅ…うっ…ねぇ…ねぇ…ぐすっ…そのよく聞き取れない〇〇さんって…誰…?私は、木森 桜って名前なんだけれど…」

 泣くのを必死に堪えながら、彼女、木森 桜の様子を見る看護師に、そう尋ねてみた。

 尋ねたのはいいが、でも何かがおかしい…。

 低く小さいかすれ声で、上手く話せない…。

 それに、顔を動かすだけでも酷く疲れ、痛みが走るのだ…。

 自分の置かれてる状況を把握し理解する迄、しばらく時間が掛かりそうだ…。

 でも今は、自分の名前として、よく聞き取れない名前で呼ばれていた事が、とても気になっていた彼女が、上手く話せないなりに、低く小さなかすれる声でもう一度聞く。

「ねぇ…〇〇さんって…誰…誰なの?誰の事を言ってるの…?わた…私は、き…木森…桜…」

 木森 桜の低く小さな声を聞き逃さない様にと、顔を近づけて聞く看護師が

「本当に意識が戻ったのね、良かった〜…。直ぐ担当の先生に連絡して頂戴。それと、ご家族にもお願い。あっごめんなさい、先ずは貴女の質問に答えないとね…。でもその前に、幾つか検査とチェックしてからにしても大丈夫?何せ、とてものだから…。どう?良いかしら?悪いけれど、お願いね…」

 彼女の質問の答えは、しばらくお預けになったのだが、それ以上に気になる言葉を聞き、混乱する彼女は無言で頷く。

(長い間眠ってた…?何それ?私…どれだけ眠っていたの?ってその前に、別の人じゃなく、私が重病患者って事なの!?嫌だそれじゃ、この体中の痛みと怠さは、私が重病患者だからなの…?)

 意識が戻り始めた時に、自分の寝ている直ぐ側に、重病患者の存在が在るのだと思っていたのに、此処迄の話の流れで、それは勘違いしていたのだと、彼女、木森 桜は理解していく。

 理解し始めてから、自分の身に起きた出来事も、全て思い出した…。

 

 自宅で、寝る時間を何日も削り、翻訳の仕事を期限内に終わらせ、締め切り日迄に5日間の余裕を作った彼女。

 そこ迄して必死に時間を作ったのには、ちゃんとした理由があったのだ。

 彼女には、どうしても会いたい大切な人が居た。

 あの日、その大切な人と会う為に、そしてその人と数日間を一緒に過ごす為に、少しでも長く一緒にいられる為に、必死に仕事を片付けたのだが、急遽飛び込みの仕事が入ってきてしまい、その仕事の締め切りが、余裕を作った5日目の夜迄との事。

 その仕事を依頼されたのは、大切な人と会う約束をした日の2日前だった。

 大切な人との会う時間を減らしたくは無いとかなり無理をして、ギリギリだったのだが、何とか終わらせる事が出来たのが、約束の当日だった。

 彼女をそこ迄追い込む程、会いたいと思わせた大切な人とは、未だ直接会った事のない恋人だった…。

 通訳の仕事を通して知り合った外国の人。

 初めは唯、仕事だけのやり取り相手だったのに、メールのやり取りをしているうちに、文章の端々から伝わる様々な人格の豊かさに、段々と惹かれていく。

 他人を気遣う心。

 何気ないジョーク。

 自分とは違う感性。

 時折り、キツく叱る文章も有ったのだが、それも、彼女を思っての叱る文章だと分かった…。

 その相手が書き出す文章には、キラキラと光り輝く、美しさと力を感じられる…。

 そして何よりも、情熱に溢れた熱い心の持ち主だと、彼女には思えたのだった…。

 初めてお互いに顔を見合わせたのは、リモートにて、仕事の打ち合わせをした時だった。

 翻訳の依頼をくれる会社の会議室で、数名の社員達と一緒に、どんな人だろうと、ドキドキしながら相手を待っていた。

 モニターに映った男性は、彼女のイメージ通りで、一目惚れしてしまう。

 元々惹かれてはいたのだが、彼女の理想でも有った為、直ぐに恋に堕ち、運命の人だと感じた。

 彼も彼女を初めて見て、同じ気持ちになった様で、モニター越しではあるが、互いから目を離せないまま、会議が終わる。

 会議が終わり

「今日の会議は有意義でしたね。あっでも本当珍しく、今迄誰にも顔を晒さなかったのに、モニター越しでも顔を出されるなんて、どうされたんでしょうね〇〇さんは…?」

 今回の会議を進行していた女性が、通信の切れたモニターを見ながらそう呟いた。

「本当、そうだよな。とても気難しい人らしいから、今迄誰も見た事ないものな…。そう言えば、誰が〇〇さんとの契約を取り付けたのかな…?」

 会議を進行していた女性に、相槌して疑問を口にする、少し年配の男性。

「えっ!?部長も知らないんですか!?」

「ん?何だ?俺が知らないのは、おかしいのか?」

「あっいえ…」

少し年配の男性は、どうやら部長の様で、気の弱そうな男性社員の驚き方に、少し機嫌が悪くなったみたいだ。

「俺は、企画・開発部に居るんだぞ?営業やマーケティングじゃないから、作家や教授さん達に、直接アポ取ったりする訳じゃないんだから、知らないのはしょうがないだろうが!…ったく…」

 そうぼやく部長を宥める他の社員達。

 そのやり取りが、妙に微笑ましく

「プッ…うふふっ…あはははは」

 と、つい笑ってしまう彼女。

「あら木森さん、どうしたのよそんなに笑って。ってふふっ、そりゃ笑うわよね〜。良い大人がこうも戯れあってちゃ〜ねぇ」

 会議の進行役の女性が、呆れた目を社員達に向けながら、笑って話し掛けてくれる。

「あっごめんなさい!笑っちゃって…。唯このチームって、今のやり取りを見ててね、信用と信頼関係が、どこよりもしっかり結ばれてるんだなって、互いを思いやれる芯の強さがあるんだなぁ〜ってね、そう思えたら、笑っちゃいました。…だからかしら?今回初めてあの人が、人前に顔を出した理由って…。多分…うぅんきっとそう!皆さんを信用できると思って、その証を示す為に、顔を見せてくれたと私はそう思うわ…」

 木森 桜の言葉が、此処に居る者達の心を満たしてくれたのだ。

 普段使わない、キザったらしく小恥ずかしい言葉を、お世辞や下心からではなく、本当に心からそうなのだと思って、彼女は言ってくれたのだと、誰もが思え感じたのだった。

 それほどスッと耳と心に入り込み、染み込んでくる…。

「貴女の声って不思議ね…。耳心地良いし、心の奥までスッと届くから、私が男だったなら惚れてたわ〜♪…ん?そう言えば、惚れてるって言っちゃったけど、気のせいか〇〇さん、リモート中ずっと木森さんを見てなかった?」

「あっそれ、俺も思ったよ!」

「私も〜」

「〇〇さん、ずっっっと一点集中してましたもんね…。モニター越しで、どこを見てるのか気になって、私、キャプチャの中を探しましたもん」

「お前、よくそんな事出来たなぁ…」

 自分達が言っていた気難しい相手に、よくもまぁそんな事を平気で出来たものだと、木森 桜は呆れたが、部長が言い放った

「もしかしてさ、今回初めて木森さんが会議に参加するって伝えてあったから、〇〇さん、木森さん目当てに参加したんじゃないかな〜」

 の言葉に、心臓が止まりそうになる程驚き、冷や汗を大量に流しながら、赤面してしまう。

「ちょっと部長!それセクハラてすよ!!木森さんにも失礼ですよ!」

「あっいやべ、別にそんなつもり…すみません…」

「ったく!木森さんも部長の事、訴えても良いですよ!ったく、本当に部長は一度痛い目に合わせないと、ちょこちょこセクハラ紛い発言するんですから…。で、木森さんはどうなの?貴女も彼をずっと見てた様だったけれど?」

 リーダーの女性にそう言われて、目を丸くし、また滝の様に汗をかきながら、真っ赤に赤面してアタフタと慌てる彼女。

「おい!お前こそセクハラなんじゃないかよ!」

「えっ?そうですか〜?でも此処に居る皆んなも、聞きたいと思ってるでしょ?と・く・に部長は」

「あぅ…そそ、そんな事は…」

「あるでしょ?」

「〜〜〜あるよ!ありますとも!」

「開き直ったわね…。って事なんだけれど、どうなのかしら?ねぇ教えてくれます、木森さん?」

 バッサバサと切るかの様に、話を進めていくリーダーの女性。

 その彼女の質問に、木森がどう答えるのか、目を輝かせている興味津々なスタッフ達。

 変な所で、揺らがない団結力を発揮しないで欲しいと、木森は思った…。

「ご想像にお任せします。必要な内容は、全てですよね?では私も戻って、直ぐに翻訳に取り掛かります。それにしても、無駄に団結力を発揮しないで下さいね。次、同じ事をしたなら、全員セクハラって訴えますから〜ふふふふぅ〜…」

 柔らかい口調と冷えた笑みで、しっかりと脅しを掛け、二度は無いと釘を刺す木森に、全員が青褪め

「はい…」

 と、素直に答えるのだった…。

「では失礼しますね…。あっそうそう実はですね、今日のリモート会議が何事もなく終えた場合、私達、お付き合いしようって約束してたんです。どちらかが席を立ったり、途中でリモートを終了したなら、お付き合いは無しって内容の約束をね〜。無事、会議が終えて良かったです♪では、そう言う事で…」

 威嚇感満載の、とびっきりの笑顔を振り撒き、ペコっと軽くお辞儀をして、会議室を後にする。

 呆気に捕らわれるスタッフ達。

 そして数秒後、廊下を歩く彼女の耳に、彼女の言葉を理解したスタッフの、“エエエーーーッ!!”との叫びが、会議室から聞こえてきた。

 余程驚いたのだろう、未だ騒がしい会議室の者達に彼女は、今後の事について、頭を悩ませていく。

(これから先、あの人達の…と言うか、この会社の、私への対応がきっと、ガラッと変わるわよね…。まぁしょうがないって言えば、しょうがないんだけれどね〜…。それにしても一致団結してまで、私のプライベートをそんなに聞きたかったのかしら…。まぁ流石、大手出版社よね〜。ゴシップ、スクープ大好き人間の集まりにしか、思えなくなっちゃったわ…。それと少し騙しちゃった事、怒らないかしら…。でもあぁ言わないと、私達の関係を誤魔化すの大変だし、シャイな彼の目は皆んなを見ても、とても穏やかだったのだから、まんざら嘘でもないものね…)

 彼女が、職場でもある自宅へと戻ってから、出版社の中はとても慌ただしく、木森と同席した社員と、社長を含めた重役員達ほぼ全ての者により、緊急会議が開かれていた。

 その会議の議題は、木森 桜と〇〇について、今後どの様に振る舞えば良いのかや、フリーの彼女をどうにかして、この出版社で働いて貰えないかなど、かなり細かく話し合われるのだった。

 何故木森に対し、重役総出での会議をしたのかと言うと、リモート会議が無事終えた事により、〇〇とパートナーとして、付き合う事になったからなのだ。

 この出版社からしてみれば、〇〇の存在とは、奇跡の人なのである。

 ペーパーレス化が進むにつれ、本を購入する者が急激に減り、この出版社もそれによって経営難となり、倒産寸前迄追い詰められていたのだ。

 そんな時にふと出版社の社長が、見知らぬモノから〇〇の存在を教えられ、言われるまま〇〇と契約をし、彼の本を出版した。

 これが駄目なら、彼の本が最後の出版だと、重役や社員の誰もが思っていたのに、発売して直ぐ完売すると言う快挙を遂げるのだった。

 直ぐに重版され、中小企業だった会社が、今では大手と呼ばれる程に成長したのだ。

 見知らぬモノに従って良かったと、誰もが思った。

 唯、出版するにあたって、一つの条件が有った。

 それは彼の本を出版するにあたって、翻訳する者に、木森を採用すると言う事。

 それからは、〇〇の担当は木森となり、翻訳するにあたっては、木森と〇〇二人だけのやり取りとなった。

 そして、仕事だけの間柄だったのに、〇〇の書く小説がシリーズ化し、その全てが人気を博し、小説家としての地位が不動のものとなり、その名を知らない者は居ないと言われる程になり、関係が続いていく。

 〇〇は、海外のちっぽけな田舎町に住んでいる無名の小説家だったのに、何故此処迄有名に、しかも日本からデビューした小説は、今では全世界で発行され、世界規模でファンが居る様になったのには、理由が有った。

 その理由とは、木森 桜が翻訳した事…。

 木森は、文章から書き手の思いや感情、どんなシュチュエーションを思い描いて書いたのか、どんな光景を表現したかったのかなど、文字から読み取る能力に長けていた。

 空想が大好きな彼女。

 幼い頃から、目に見えない存在を創り出し、毎晩夢の中でピーターパンの様に、創り出したモノ達と、夢中になって遊んでいた…。

 そんな彼女だからこそ、〇〇の書いた文章から、様々なモノを読み取り、〇〇が本当に書きたかった言葉を紡ぎ文章にし、最高傑作をこの世へと送り出したのだ。

 初めは余計な事をしたかもと、〇〇の反応が怖かったのだが、返ってきたのは

「ありがとう」

の、感謝の一言だった…。

 その一言だけなのに、文字から心を読み取る彼女には、〇〇が恥ずかしがり屋の照れ屋なんだと思い、その文字から溢れるピュアな心の言葉が次々と、彼女を満たし包み込んでいく。

 気難しいと言われるのはシャイだから、恥ずかしくて上手く言葉が出てこないからだろう…。

 その為、他人と接する事が少なく、上手くコミニュケーションが取れないからだろうか、正直〇〇の書く文章には、表現力が足りてはいなかった。

 日本語が使えない〇〇に、木森が訳して作り直された文章を使用し、改稿された内容を更に、〇〇の国の言葉に戻してチェックをしてもらい、〇〇の許可も降りた事で、出版する事が出来た。

 〇〇も、木森に翻訳して貰う上に、自分の書きたかった表現が、彼女から学ぶ事が出来、彼自身の持つ、独創的な世界観を表す振り幅が増え、ドンドン面白さが増して、更にファンが増え続けていた。

 その間も、木森の翻訳などのサポートが、彼の魅力を十二分に引き出し、付け足していた。

 彼は次第に、木森に恋をする。

 実際に会った事のない木森じんぶつなのに、繊細な文字運びや、自分への心遣いを感じるメールのやり取りで、いつしか木森と同じ能力が身に付き、文字や文章から伝わる彼女の人物像を創り上げ、木森 桜と言う女性に恋をした…。

 木森も同じく、彼に惹かれていた。

 そして二人は、一つの約束を交わす。

 今書いている小説を書き終えたなら、正式に出会い、結婚しようと…。

 そして遂に、シリーズ化とした長編の大作は、世界中のファンの悲しみ惜しむ声の中、無事完結を迎えたのだった。

 先程のリモート会議は、その最終巻に対する会議だったのだ。

 実は二人、その最終巻に向けての会議を利用し、結婚する相手を見て、想像と違っても結婚したいと思えるか、または婚約破棄したいかを決めようと、木森の提案で決められたのだった。

 その条件を二人はクリアし、無事、正式な恋人となれた二人。

 世界的に超有名な人物との恋愛が、出版社や世間に知れたら、彼の執筆に悪い影響を与えかねないと、二人はお互いの読み取る能力を使って、極秘にメールの文章の端々に暗号の様に散りばめ、誰にも気づかれないまま、この日迄愛を語り合っていた。

 社員達にも、予め準備する作業工程がある為、小説に携わる者全員が、彼のメールを閲覧出来る事になっていた。

 備えておいて良かったと、木森は思う。

 最終巻の発売日迄、二人が付き合っている事を公表しないで欲しいと、出版社に強く念押しし、発売と同時に出版社からスクープとして、公表された途端、相手は誰かと世間が騒ぎ立てたのだ。

 名前や職業も伏せられたのに、何度か特定されそうになった木森は、付き合い始めた時に、全てを公表していたのなら、危険な目や辛い目にあっていたかも知れないと、想像しただけで身震いしてしまうのだった。

 だから尚更、あの日に会いたいと、寝る間を惜しんで働いたのだ…。

 それなのに、信号無視の車に撥ねられて、生死を彷徨い、今此処に、重症患者として入院している。

 全てを思い出した彼女。

「ねぇ、教えて…」

 か細い声で、看護師に尋ねる。

「私は、一体…どれだけ眠っていたの…?」

 直ぐに答えられない看護師。

「それと…名前…。私は木森…木森 桜なんだけど…」

 少々長い沈黙の後

「聞いて驚かないでね…。まぁそれは難しいとは思うけれど…。それでも良い?」

 看護師の辛そうな重い表情に、正直知る怖さを感じたのだが、聞かないまま、何も知らないままでは、先に進む事など出来る訳がないと、ゆっくりと頷く。

「そう?…分かったわ…。貴女の眠っていた期間はね、2年なの…」

 “2年!?2年も、意識を無くしていたの!?”と、血の気が引き、心臓が苦しく痛み出す…。

「それとね、貴女の眠ってる間に、貴方は結婚したのよ…。婚約者の〇〇さんとね…。だから今は、貴女の名前は〇〇 桜さんって名前なのよ。詳しくは、旦那さんの〇〇さんから直接聞いてみてね…」

 俄かには信じ難い話なのだが、一つ思い出した事があった。

 念願の彼と出会ったら、何日か一緒に過ごし、実際の自分を知った上で、彼の心に変化が無ければ、直ぐにでも籍を入れられる様にと、婚姻届にサインした封筒をカバンに入れていた事…。

 都合のいい様に推測したとして、多分それで合っている…。

 自分のカバンの中から、彼女のサイン入りの婚姻届が出てきて、彼は迷う事なく、自分と婚姻してくれたのだろうと、そう思えたのだ…。

 …嬉しかった…。

 そう思わせてくれた、愛しい彼に会って、言いたい事が、伝えたい言葉がある…。

「今直ぐに…会いに来て……」

 そう呟き、遠くを眺める様に、病室の天井を見上げた…。

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