第39話 おとり1
クライット公爵家は王都の郊外にある。城からは南に位置する王都の外れ。クライット公爵が、緑が好きだった為この地を選んだという説が有力だ。しかし、国王の血に近いクライット公爵への当てつけだという説もある。城に程近い貴族よりも遠くに追いやることで、血は尊いが、発言力は然程無いと知らしめる為だと言うものだ。
国王亡き今、どの説が正しいのかは神のみぞ知る。
リンリエッタの婚姻を待たずして、クライット公爵はまた倒れた。婚姻の儀式を予定したその日の朝のことだ。
慌ててやってきた医者に、「今日が山場だ」と伝えられた時、リンリエッタは顔を歪ませた。刻一刻と出発の時間が迫っている。しかし、父親が死の淵に立たされているのだ。このままでは、リンリエッタの帰りを待たずして、クライット公爵は天へと昇るであろう。
カインは、父親の側を離れないリンリエッタの側に居ながら、手を引くことはできなかった。
「リンリエッタ、行きなさい」
殆ど意識のない中、僅(わず)かに開いた口から出た言葉は、リンリエッタの背中を押すものだった。重い瞼の間からはリンリエッタよりも濃い青の瞳が顔を覗かせる。何度かきょろきょろと動かすと、娘をとらえた。
「お父様、嫌よ」
リンリエッタは父親の手を握りながら涙する。彼女の涙がクライット公爵の手を濡らした。クライット公爵には、もう娘の手を握り貸すだけの力は残っていない。本来ならば、口もきけない状態であった。それでも彼は言葉を絞りだす。
「行きなさい。これは父親としての最後のお願いだ。そして、君は幸せになりなさい。泣くことはない。私は神の身元へ行くんだ。リンリエッタはこれから神の元で誓いを立てるのだろう? なら、特等席で見ることのできる私は幸運だよ」
「お父様」
リンリエッタのアクアマリンの瞳が揺れる。
「カイン、娘を連れて行きなさい。後は頼んだ」
クライット公爵は僅(わず)かに口角を上げた。そして、ゆっくりと瞼を閉じる。まだ弱々しく呼吸を繰り返していた。
「リンリエッタ、行きなさい」
リンリエッタとは逆側でクライット公爵を見守る母、エリーゼはクライット公爵と同じ言葉を繰り返す。
「お父様は私に任せて行きなさい。リンリエッタ。貴女は今すべきことをなさい」
「お母様」
リンリエッタは涙に濡れた瞳で母親を見つめる。そして辿るように父親に視線を移した。
リンリエッタは静かに拳を握る。握りしめる手は震えていた。
「お父様、行ってまいります」
リンリエッタは肉の無くなった父の頬を撫でた。涙に溺れそうになる瞳を何度も拭う。
部屋を出てすぐ、カインはリンリエッタの手を引く。
「リンリエッタ様。今日の予定は全て流しましょう」
カインの提案に、リンリエッタの瞳が揺らぐ。今日、実行しなければ今までの計画は全て水の泡だ。下手をすれば、カインとリンリエッタの婚姻すら不可能になるかもしれない。
カインはそれを理解しながら、リンリエッタに提案する。
しかし、リンリエッタは頭を横に振った。
「駄目よ。最後の時間は夫婦二人きりにさせてあげないと。お母様に恨まれてしまうわ」
「リンリエッタ様は宜しいのですか?」
「ええ、だから少しだけ胸を貸して頂戴」
「はい」
リンリエッタはカインの胸で静かに涙を流した。リンリエッタの震える肩を、カインは優しく抱く。
次にリンリエッタが顔を上げた時には、まるで父親など倒れていない様に、すっきりとした顔をしていた。少しばかり目は腫れていたが、化粧でどうにか誤魔化せる程度だ。
そして、リンリエッタは供にカインをつけて、クライット公爵家の扉を潜った。
「ご苦労様」
屋敷を取り囲む兵士達に、リンリエッタは笑顔を向ける。宰相の指示で用意された護衛と言う名の監視役であった。
「本日はどちらまで?」
「彼の友人の店まで。素敵な宝石が入ったそうよ」
「失礼ですが、そちらの荷物は?」
「この鞄? ドレスよ。ドレスに合わない宝石を買っても意味がないでしょう?」
どんな質問にもにこやかに答えるリンリエッタの後ろでは、カインが大きな鞄を持って佇んでいた。決して声は出さず、荷物持ちに徹する。
何食わぬ顔で屋敷を出たリンリエッタは、カインの動かす馬車に揺られた。大きなため息が馬車を充満させたが、それを咎める者は居ない。
リンリエッタは、進行方向とは逆側の席に移動すると、背もたれの先を見つめる。馬車に身体を預けると、彼女はゆっくりと瞳を閉じた。
リンリエッタの乗せた馬車は、繁華街の近くで止められる。リンリエッタとカインは二人、大きな鞄を持ってジェイの店へと向かった。
「よう、来たな。お二人さん」
ジェイが歯を見せて笑う。露店は朝から店仕舞いなのか、家の前に小物は広げられていなかった。
「お久しぶりね、ジェイ」
「これはこれは、お久しぶりでゴザイマス」
慣れない口ぶりで、ジェイが首(こうべ)を垂れる。リンリエッタはぎこちない挨拶に肩を揺らして笑った。
「畏まらなくて良いのよ。貴方はカインにとってお兄様みたいなものでしょう? なら、私にとってもお兄様だもの」
「おいっ! オニーサマだってよ。ほら、お姫さんの方がよぉく分かってんじゃねーか」
ジェイがカインの肩を抱く。嬉しそうに大きな口を開けて笑った。顔を寄せられて、カインは面倒そうに顔を歪めた。
「私、ジェイといる時のカインも好きよ」
「リンリエッタ様?」
リンリエッタが嬉しそうに頬を緩ませた。風がリンリエッタの髪を攫(さら)う。風に乗せて、ジェイが口笛を鳴らす。高い音が空にまで響いた。
「お姫さん、そこんとこ、詳しくお願いしますわ」
「ジェイ」
咎(とが)める声と共に、カインの手がジェイの顔面に伸びた。近づくジェイの顔を押しのける。
「良いだろ。こんな時しかお前の話聞けねぇんだし」
「あら、私もカインの話が聞きたいわ。是非、我が家にお茶をしにいらして。美味しいお酒を用意しておくわ」
リンリエッタとジェイが顔を合わせて口角を上げた。この二人を組ませてはいけない。カインの頭に警笛が鳴る。
「リンリエッタ様、参りましょう。時間がありません」
逃れたい一心で、カインはリンリエッタとジェイを急かした。本当のところ、時間に余裕はある。しかし、リンリエッタはカインの意図を組んだのか、優しく微笑むとしっかりと頷いた。
「そうね。ジェイ、申し訳ないけれど、カインの話はまた今度」
「モチロンですとも。さ、お二人さん。こちらへどーぞ」
二人はジェイに案内されるがまま、家の奥の部屋へと入っていった。
家の奥に店があるわけではない。そこはジェイの生活空間だった。ジェイは、一番奥の客間に相当する場所に案内すると、口角を上げる。
「それではお二人さん、夕刻(・・)までご勝手に」
「ええ、無理を聞いてくださってありがとう」
ジェイは「イエイエ」と手を振り、部屋の扉を閉めた。
部屋に残された二人は目を合わせ頷き合う。カインはすぐさま鞄を開き、一着の洋服を取り出した。
「まさか、これが日の目を見るとは思いもよりませんでした」
カインが手にしたのは簡素なワンピース。以前、彼がリンリエッタに贈ったものだ。カインの手から奪い取ると、リンリエッタはそのワンピースを抱きしめる。
「私、これをずっと着たかったの」
「今日しか着ることのできない特別な洋服です」
「何度だって着たいのに」
「他のドレスでしたら、何度でも着ることができます」
「違うわ。これは特別なの。貴方が私と並んで歩む事を決めた日の作品よ。さあ、カイン。脱ぐのを手伝って頂戴。私をただのリンリエッタにしてくれるのでしょう?」
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