第36話 平民の男

「教会が宮殿に報告するかもしれないわ」

「君には懇意にしている教会があるだろう?」


 クライット公爵は不安そうにする娘に対し、背を押すように不敵な笑みを浮かべた。リンリエッタとカインはクライット公爵の言葉に頷き、手を取り合う。クライット公爵は目を細めてその様子を見た。


 侍女の手によって用意された筆を持って、クライット公爵は、書状を書き始める。半分までいったところで、彼はふと手を止めた。


「勘違いしないで欲しい。私は君を許したつもりはない。今でも娘にはもっと相応しい男がいたと思っている」


 クライット公爵は胸を苦しそうに押さえた。少しばかり文字が歪むのは、もう彼の手に殆ど力が入っていないせいだ。リンリエッタの眉尻が下がる。


「はい」


 カインは静かに頷いた。ただ頷くだけのカインに、リンリエッタの眉尻が更に下がる。


「今の時点で君が一番マシというだけだ。最良だとは思っていない。私に時間が有ったのなら、跳ね除けてもっと良い男を探しただろうね」


 クライット公爵には分かっていた。自身の身体にもう時間がないことを。クライット公爵を蝕む病気は、リンリエッタの幸せをこの目で見る事無く神の身元へと追いやるだろう。クライット公爵は、胸元を握りしめる。質の良いシルクのシャツがくしゃりと歪んだ。


「お父様……」

「リンリエッタは女王になるんだろう。そんな顔をしてはいけない。これからは誰の前でも笑顔でいなさい。例え父親が死んだとしてもだ」


 リンリエッタがキツく目を瞑り、何度も頭を左右に振る。踊るように金の髪が左右に揺れた。


「まだ、女王ではないわ」

「今できないのに、女王になってできるわけないだろう? 今から笑いなさい」


 リンリエッタは駄々っ子のように、頭を振り続ける。クライット公爵はそんなリンリエッタの姿に、小さなため息を漏らした。


「兎に角、この男を認めたわけじゃない。ただ、今貴族を選んでも、リンリエッタを想うどころか、家を大きくする道具にするだろう。それなら一層の事、平民の方が良い」


 クライット公爵は、筆を持ち直すと書状を最後の一文字まで綴った。最後に、クライット公爵家を示す蝶の家紋が押印される。


「お主もほとほと素直でないのう。なあに、こやつの言葉は話半分に聞けば良い」

「父上」


 アデルが苦笑を浮かべ、リンリエッタを慰める。それを咎めるようにクライット公爵はアデルを睨んだ。しかし、父と子。クライット公爵がアデルに敵う筈もない。愉しげな笑い声で全てが流された。


「リンリエッタ、これからは笑顔でいなさい。それ以外の顔を見せるのは、夫となるカインの前だけだ。良いね?」


 父親の口からカインの名を聞くと、リンリエッタは顔を綻ばせた。彼女は声もなく頷く。


 そんな彼女の様子にクライット公爵は、小さなため息を漏らしながら筆を置く。隣でアデルがニヤニヤと何か言いたげに頰を緩ませていた。カインは未だ無表情のまま小さく頭を下げる。


 リンリエッタはこの状況に恥ずかしさを覚え、隣に置いてあったクッションを取ると顔を埋めた。


 しかし、懐かしい柄のクッションは、リンリエッタの胸を締め付ける。思わず強く抱き締めると、中でクッションとは思えない音がなった。それは、中で紙同士が擦れる音だった。


「え……?」


 リンリエッタは長い睫毛を瞬かせる。まじまじとクッションを見つめていると、隣に座るカインが不思議そうに首を傾げた。


「いかがなさいました?」

「何だか変なの」


 リンリエッタはカインを見上げた。向かいに座るアデルとクライット公爵も訝しげに二人の様子を見守る。


「失礼致します」


 カインはリンリエッタの手からクッションを奪うと、様々な角度から手を押し付けた。答えを待つようにリンリエッタがアクアマリンの瞳を揺らしながらカインを見上げる。


 続いてカインは、クッションの端を隈無く確認した。


「こちらの糸だけ新しい物が使われております」


 カインの指した場所は、クッションの端。丁寧に縫い付けられてはいたが、若干糸の色が違っていた。


「解いても構いませんか?」

「ええ、お願い」


 カインが歯で糸を噛み切る。リンリエッタはただただ固唾を飲んで様子を見守った。


「リンリエッタ、そのクッションは何だい?」

「これは、アルベエラの物よ」


 アルベエラ付きの侍女が、彼女の遣いとして持ってきた物だと説明すれば、アデルの顔が険しくなる。


 そうしているうちに、カインがクッションの端を器用に開いた。リンリエッタはぽっかりと空いたクッションの中を覗き込む。続いてカインがクッションの中に手を入れた。引き抜いた手の中に有ったものは、小さく丸められた紙だ。


 リンリエッタに手渡された紙は、彼女の手によって広げられた。皺の寄った紙に書かれていたのは、落書きのような文字の羅列。それは、意味を成しているようには見えない。


 カインは首を傾げる。アデルも気になる様子で、重い腰を上げリンリエッタの側へと寄った。


「なんじゃ、アルベエラはゴミでも寄越したのか?」


 アデルの素っ頓狂な声が部屋を満たす。しかし、リンリエッタは答えない。代わりにカインの手にあるクッションを奪うと、テーブルの上に逆さにした。口の空いたクッションからはなかなか中身が出ない。リンリエッタは焦るようにその中に手を入れた。


 ボロボロとクッションの中身がテーブルを汚す。それと共に紙屑が散らばった。


「沢山入っておるの」


 リンリエッタは紙屑だけを器用に選別し、開いていく。彼女の真剣な横顔に、カインも紙を広げる作業に加わった。二人で広げられた紙は十を超える。


 アデルはその横で意味の通じない文字の羅列が並ぶ紙を人差し指と親指で摘まむ。宙にかざして見ても、意味は通じなかった。


「アルベエラ……」

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