第32話 後押し

 リンリエッタはカインが見守る中、夢の世界へと旅立った。彼は甲斐甲斐しくも、陽が昇るその時まで手拭いを替え続ける。


 リンリエッタの目が覚めた時、最初に目に入ったのは、カインの健やかな寝顔。彼は途中で睡魔に負け、リンリエッタの眠るベッドの端で眠りに落ちてしまったのだ。


 なかなか見ることができない寝顔に、リンリエッタは顔を綻ばす。彼女は息を殺し、カインの寝顔を見続けた。


 規則正しい彼の寝息がリンリエッタの前髪を僅(わず)かに揺らす。リンリエッタは笑みを深くした。


 しかし、リンリエッタの至福の時間は、そう長くは続かない。窓の外で小鳥が朝の歌を披露すると、カインは長い睫毛を震わせた。


 リンリエッタの愛するペリドットが二つ姿を現わす。まだ焦点の合わない目が、ゆっくりと動き出した姿を、リンリエッタは見つめた。


「おはよう、カイン。良い夢は見れて?」

「……リンリエッタ……さま?」

「寝ぼけているのね。ごめんなさい。私のせいでこんな所で眠らせてしまったわ」


 リンリエッタは寝転んだまま、カインの頬に手を伸ばした。寝起きの彼は訳もわからず、リンリエッタにされるがまま、頬を弄られる。


 何度も顔を歪ませて、夢の世界から戻ろうとするカインを、リンリエッタは慈しむように見つめた。


 彼は現実の世界に戻ってくると、大きく目を見開いて慌てたように立ち上がる。挨拶するよりも早く、カインは腰を折った。


「申し訳ございません。このような場所で眠りにつくなど」


 リンリエッタはコロコロと笑いながら、起き上がった。


「良いのよ。私が眠っている間もずっと目を冷やしていてくれたのでしょう? お陰で随分とすっきりしているもの。それに……」


 腰を折るカインの顔に手を伸ばすと、リンリエッタは彼の頬に触れた。彼の肩が少しばかり跳ねる。リンリエッタは目を細めて彼を見つめた。


「一緒のベッドに眠っても良かったのよ?」


 カインは目を見開いて、顔上げた。リンリエッタの笑顔に迎えられ、彼は眉根を寄せる。


「リンリエッタ様」


 カインの咎めるような声が部屋に響く。しかし、リンリエッタは気にした様子もなく、涼しい顔だ。まるで、本当にそれを期待しているような雰囲気すらある。


 カインが言葉を続けようと口を開いた時、それをかき消すように、扉が叩かれた。


「どうぞ」


 リンリエッタの言葉に、カインは慌てて立ち上がる。そして、足をもつれさせながら壁際まで移動した。そんなカインの行動を喉の奥で笑いながら、リンリエッタもベッドから起き上がる。椅子に掛かるガウンを肩から掛けると、扉へと足を向ける。


 リンリエッタが手を掛けるよりも早く、扉はゆっくりと開いた。侍女の一人が頭を下げてリンリエッタに朝の挨拶をする。


「どうしたの?」

「リンリエッタ様にお客様がいらしたのですが、少し様子がおかしいのです」


 尻すぼみになる言葉に、リンリエッタは首を傾げる。カインも同じ様に首を傾げた。


「分かったわ。すぐに準備します。ひとまず応接室にご案内して頂戴」

「畏まりました」


 侍女は一礼すると、慌ただしく部屋を後にした。パタパタと廊下を駆ける音がリンリエッタの耳に入る。リンリエッタは閉じる扉を眺めながら肩を竦めた。


 応接間で待っていたのは、身体中すすけた女だった。とても、公爵令嬢に会いに来る格好ではない。スカートの裾は裂け、女の足が太股まで露わになる。彼女は大きな物を守るように抱えていた。その姿を見て、リンリエッタの眉が僅(わず)かに跳ねる。リンリエッタは侍女に湯あみの準備と着替えを用意するように指示をした。


「リンリエッタ様、初めてお目に掛かります。わたくしは、アルベエラ王女殿下の侍女でございます」


 震える声は、リンリエッタの心臓を跳ねさせる。女の言葉を聞いて、リンリエッタはアクアマリンが零れそうになる程、目を見開いた。


「貴女、宮殿からいらしたの?」


 リンリエッタの形の良い眉が中央に寄せられる。眉の間に皺が寄る。女は瞳に涙を溜めながら何度も何度も頷いた。


 リンリエッタはひとまず侍女の用意したガウンを女の肩に掛けると、彼女の隣に腰を下ろす。そして、優しく肩を抱いた。


「教えて。何が有ったのか」

「はい。お聞きくださいませ」


 侍女は震える声を絞り出す。紡ぐ物語は決して作り話ではない。アルベエラが女に逃げるようにと隠し通路を走らせたこと。宮殿の外では兵が脱走者を出さない様に目を光らせていたこと。兵の目を掻い潜って命からがらこの南の郊外まで走ったことを。


「アルベエラ様は、最後こちらを親友のリンリエッタ様に渡すようにと仰いました。リンリエッタ様のお気に入りだからと」


 女が煤(すす)けた布にくるまれたクッションを取り出す。リンリエッタの目に飛び込んできたのは、彼女の気に入りのクッションであった。


「アルベエラは、死病で亡くなったそうよ」

「そんなっ! そんな筈はありません。アルベエラ様に死病の症状は出ておりませんでした」


 女はリンリエッタの言葉を受け入れたくないと言うが如く、何度も頭を振る。リンリエッタとて、彼女の言葉を信じたい。しかし、宰相が虚偽を語る理由が思いつかなかった。


「貴女は少しお休みなさい。湯と着替えを用意させています」


 嗚咽を漏らす女にリンリエッタは優しく背を撫でた。リンリエッタの優しさに触れ、安堵した女は箍(たが)が外れたように泣き崩れる。リンリエッタはその姿を見つめ、唇を噛み締めた。


 女が落ちついた頃、侍女に彼女の面倒を頼むと、リンリエッタは応接間で一人ため息を漏らす。目に入ったのは、アルベエラから託されたというクッション。それは、まだ二人がアルベエラの部屋で良く会っていた頃の物だ。


「アルベエラったら、まだこんな物残していたのね」


 小さく笑っても、アルベエラの返事は返ってくることはない。リンリエッタはゆっくりと瞼を閉じる。瞼の裏に現れるのは、アルベエラの顔。幼い頃、リンリエッタの背中を押すのは、いつもアルベエラの役目であった。


 リンリエッタの顔が歪む。目頭に集まる熱に、奥歯を噛み締めて耐えた。熱が涙に代わって溢れる。リンリエッタは両手で目頭を押さえた。しかし、彼女の感情は津波の様に押し寄せた。そして、リンリエッタの手など跳ねのけて、外へと飛び出す。頬を伝い、顎から零れた涙は、ドレスを濡らした。袖口で何度拭ってもそれは溢れるばかりだ。


 カインによって扉が叩かれるまでの間、リンリエッタは親友の死を嘆いた。


 何も知らないカインがリンリエッタの姿を見て、驚かない訳がない。慌てたカインがリンリエッタに近寄った時には後の祭り。リンリエッタはカインに抱き着いて、カインの洋服をも濡らした。


 カインはそんなリンリエッタを咎めることなく、弱々しく背を撫で続けた。次にリンリエッタが顔を上げるその時まで。


 カインに見せたリンリエッタの顔は、涙に濡れてはいたが、絶望に落とされてはいない。しっかりとした意志のある瞳(め)をしていた。


「貴方にお願いがあるの」

「何なりと」


 リンリエッタの言葉に安堵のため息を漏らすと、カインは床に片膝をついて、リンリエッタを見上げた。既視感すらある姿にリンリエッタは、目を細めて笑う。


「貴方にしかできない仕事よ」

「はい」

「ドレスを一着作って頂戴」

「どのようなドレスを作りましょうか?」

「小娘だと、侮られないようなドレスが良いわ」


 リンリエッタは極上の笑みを見せる。目の腫れなど気にならない程の笑みであった。


 その姿にカインは深く頭を下げる。


「最高の物を」

「よろしくお願いね、カイン」


 リンリエッタのドレスを作ることこそが、カインにとっての幸せならば、ドレスを作らせるまで。リンリエッタは、全てを受け入れ、戦うことを心の中にいる友人に誓った。リンリエッタは彼の後頭部を見つめながら、悲しそうに笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る