第31話 離れた手

 目を腫らしたリンリエッタは、鏡の前で苦笑を浮かべる。同じように苦笑を返した鏡の中の同じ姿をした女に、彼女はため息を漏らした。


「酷い顔」


 鏡の中のリンリエッタに手を伸ばし、彼女は腫れた目に触れる。綺麗に磨かれていた鏡は、リンリエッタの目の周りだけ白く濁って腫れを隠す。


 宰相の帰りを見送った後、リンリエッタは己の不幸を嘆いた。日が暮れるまで泣き続けたリンリエッタの側には、絶えずカインが寄り添う。しかし、彼は決してリンリエッタが望むことを言ってくれた訳では無い。


 リンリエッタの心は限界を超えていた。全ての不幸が降りかかったような錯覚すら覚える。リンリエッタ自身、何に苦しんでいるのかすら分からなくなっていた。


 共に逃げようと嘆くリンリエッタに、カインは首を横に振り続けた。カインがリンリエッタにここまで反抗したことは今までに一度たりとも無い。彼女からの愛の告白以外は、「はい」以外の返事を聞いたことがなかった。


 リンリエッタとカインは気持ちが通じあったばかり。それだというのに、無理だと首を振り続けたカインの気持ちがリンリエッタにはわからない。


 リンリエッタのことを嫌いになっている様子は一切なく、共に生きると決めたことを後悔している雰囲気もない。それでもカインは、たった一言である「はい」を口にはしなかった。


 二度目のため息を漏らした時、部屋の扉が叩かれる。


「どうぞ」

「失礼致します」


 カインは手に水の入った桶と手拭いを持って、部屋の中へと入った。リンリエッタは目を細めて迎え入れる。


 腫れた目を心配して、カインは彼女の為に水を汲んでいた。良く冷えた水が、桶の中に並々と入っている。水は、カインが歩くたびにチャプンと音を立てた。


「早く冷やしましょう。横になって下さい」


 カインは視線だけでベッドを指し示す。濡らした手拭いを充てるには、横になるしかない。この部屋には、横になれるような場所はベッドの上しかなかった。気恥ずかしさを感じ、リンリエッタは頬を染める。しかし、涙の跡がそれを隠した。


 リンリエッタはカインに促されるまま、ベッドの上に横になった。カインの手にある桶は、かろうじて処分されず残っていた椅子の上に置かれる。


 カインは床に膝立ちになり、冷たい水に手を入れた。充分に絞った手拭いを、リンリエッタの目の上に置く。暗闇の中、彼女は小さく息を吐いた。


「ごめんなさい。貴方には、迷惑かけてばかりね」

「いえ、迷惑だと感じたことはございません」


 リンリエッタには見えていないにも関わらず、カインは首を横に振る。微かな衣擦れの音の為に、彼女にもそれが伝わったのか、彼女の口から小さな笑い声が漏れた。


「ねえ、カイン」

「はい」

「何故、私と一緒に遠くへ行ってはくれないの?」

「リンリエッタ様……」


 カインの咎めるような声が部屋に響いた。しかし、リンリエッタは気にも止めず言葉を続ける。


「言いたく無かったら良いのよ。でも、言葉にしてくれないと分からないもの。私に嫌気がさしてしまった?」

「そのようなこと、有るわけがございません」

「なら、教えて欲しいの。貴方の気持ち。でないと、私勝手に悪い方へ考えてしまいそう」


 リンリエッタは手を彷徨わせる。彼女の手はカインの腕をようやっと見つけだした。弱々しく撫でられ、カインは静かに眉根を寄せる。暫し考えた後、彼は小さく息を吐いた。


「……外は死病が充満しております」

「死病が怖いから屋敷を出たく無かったというの?」

「はい、私にはリンリエッタ様が消えてしまうことが何よりも怖い……」

「貴方はとても臆病なのね」


 リンリエッタがカインの腕に触れる手に力を込める。その手に彼の手が重ねられると、リンリエッタは破顔した。


 カインはリンリエッタの手を強く握りしめた。リンリエッタは思わず顔をカインの方に向ける。頭を動かしたことで、彼女の目の上に乗せられていた手拭いが滑り落ちた。


 カインはリンリエッタと目が合うと、困ったように眉尻を下げる。そんな彼にリンリエッタは目を細めて笑った。


「私、もうただのリンリエッタにはなれないのね?」

「はい、畏れながら」

「そうね。貴方が屈強な騎士だったら良かったのに」

「申し訳ございません」


 リンリエッタは夢を見る。騎士になったカインに手を引かれ、国から逃げる夢。しかし、カインの苦しそうな返事に首を横に振った。


「いいのよ。そうしたら、着るものが無くなってしまうもの」

「ドレスを作れる騎士になることができれば、問題ありませんでした。私の落ち度です」


 カインは眉尻を下げると、項垂れた。そんな様子を見て、リンリエッタはコロコロと笑う。


「貴方、そんな真面目な顔で冗談を言わないで」


 彼女の笑顔を見つめながら、カインはホッと胸を撫で下ろす。ずっと泣き腫らした目はまだ腫れて痛々しい。それでも、彼女に笑顔が戻ったことに、カインは安堵を覚えていた。


「ねぇ、カイン。貴方は良いの? 私が女王になっても」

「私は貴女の元でドレスを作ることが出来れば、それだけで幸せにございます」

「女王になれば後継を生まねばならないわ。それがどういう意味か分かっている?」


 リンリエッタの柔らかな言葉には、苦悩が混じっていた。王族の血はリンリエッタただ一人。庶子の娘が担ぎ上げられる程切羽詰まった状況だ。すぐにでも後継が望まれることは、火を見るよりも明らかである。


 即位をすればすぐに夫があてがわれるだろう。それは、宰相にとって最も都合の良い人物。リンリエッタの脳裏に宰相の息子が過った。


「私にそれ以上何を望めましょうか。私の作ったドレスを貴女が着る。それだけで十分で御座います」


 カインは、握っていたリンリエッタの手を引くと、額を押し付ける。よく見る光景に、リンリエッタはため息を吐く。


「愛を誓い合ったとは思えない台詞(セリフ)ね」


 悲しみの混じった声は部屋に広がる。この時のカインの表情は、誰も知る由がなかった。

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