第26話 死病2

 何者かの襲撃が有った際、逃げることができるように、王族の部屋には隠し通路があった。これは、王族にのみ知らされている事実。アルベエラはベッドの下に有る通路を示す。


「アルベエラ様? 何を仰っておいでですか」


 一人で逃げよと言うアルベエラに対し、侍女は呆然と彼女を見つめる。


「何も聞いては駄目よ。貴女は何も知らない。お使いに行って欲しいの。クライット公爵家のリンリエッタは分かるでしょう?」

「はい、勿論です」


 侍女の声が震えた。アルベエラは、強く彼女の肩を掴む。侍女の瞳は不安に揺れる。アルベエラは、そんな彼女の心を癒すように、優しく微笑んだ。


「彼女にこのクッションを届けて頂戴。これは彼女のお気に入り。ずっと渡しそびれていたものよ。彼女、今大変らしいの。だからそのまま彼女を手伝ってあげて」

「ですが、アルベエラ様は……」

「私にはやることがあります。安心しなさい。私は大丈夫。貴女は貴女の仕事をなさい」


 扉を叩く音が部屋中に響く。アルベエラと侍女は顔を見合わせた。


「大丈夫。行きなさい。真っ直ぐ歩くのよ」


 侍女を隠し通路の入り口に押しこめ、アルベエラは笑った。


「リンリエッタに宜しく言って頂戴。彼女、私の親友なの」


 アルベエラがはにかむように笑うと、侍女の瞳には涙が溢れる。彼女は何度も何度も頷いた。大きなクッションを抱いて、侍女は隠し通路に姿を隠した。彼女の足音が遠くへと消えた時、扉がもう一度叩かれる。


「うるさいわね」


 扉を開きながら、アルベエラは大きなため息を吐く。扉の先には、宰相が立っていた。


「これはこれは、アルベエラ王女殿下。お元気そうで何よりです」


 宰相はアルベエラを頭の天辺から足の先まで舐めるように見つめた。


「何かしら? こんな所まで。ここがどこだか分かっていて?」


 王女の私室に侍女を通さずに男が訪れるなど有ってはならない。それが宰相であってもだ。アルベエラは宰相をきつく睨んだ。


「今は非常時でございます」

「そうね、元気なのは私だけですものね」


 アルベエラは自嘲気味に笑った。まさか、胃を痛めていたことが功を奏した等とあっては笑えない。宰相が何かを企んでいたことは分かっていたのにも関わらず、何も出来なかった自身を恨んだ。


「言いなさい。何が目的?」

「何のことか分かりませんな」


 宰相は肩を揺らして笑う。しかし、目は一切笑ってはいなかった。


「分かっているのよ。これは全て貴方の仕業。もう、終わりにしましょう?」


 アルベエラは腕を組んで宰相を睨む。大きな目を細めて、蔑むように。


「さすが聡明なアルベエラ王女殿下だ。敵いませんな」


 宰相はクツクツと笑う。その声は次第に大きくなり、部屋中に広がった。


「ああ、残念でなりません。このような聡明な王女殿下を失うとは」


 宰相は泣いているが如く、手で目元を押さえた。しかし、涙が零れる様子はない。それどころか、口の端からは笑みが零れた。


「食事に何を盛ったの?」

「ほほう。そこまでお分かりか。しかし、残念ながら、殿下は籠の中の鳥。毒の餌を与えた者を捕らえることなどできません」

「何を言っているの。誰か! 誰か!」


 宰相は叫ぶアルベエラの腕を掴むと、壁へと押し付けた。好きなだけ叫べと言うが如く、宰相は口を押さえたりはしない。ただ、手の内で暴れるアルベエラをニタニタと笑って見下ろすだけだ。


「誰をお呼びか。皆、とうに逃げておりましょう」


 国王が倒れ、王妃も続いた。二人の王子も高熱を出したとあれば、使用人達の恐怖は最高潮に達する。着の身着のまま、使用人達は逃げる様に宮殿を後にした。残っているのは、死を迎えても何ら恐くない老人くらいだ。その逃げた使用人も宰相の私兵によって捕らえられ、口封じの為に命を奪われているなどと、アルベエラは知る由もない。


「お可哀想に。声を上げても誰も助けには来ない。ああ、これが尊き血を受け継ぐ王族の姿か」


 宰相の顔が歪む。アルベエラは奥歯を噛み締めて宰相を睨みつけた。それでも、宰相が優勢な事には変わりない。男と女。力の差は歴然だ。宰相の懐から取り出されたのは、小さな瓶。真っ赤に染まる液体が波打っていた。


「もしかして」

「その通り。これが神の身元に行ける幸福の薬」


 宰相の顔が歪む。アルベエラの手首を掴む手の力が増した。


「下衆」

「おお、尊き血の流れる王女殿下とは思えないお言葉ですな」


 アルベエラは、言葉の代わりに唾を吐きつけた。唾は宰相の頬をべっとりと濡らす。みるみるうちに宰相の顔がぐしゃりと歪んでいった。


「優しくしていればいい気になりおって」


 懐に小瓶を戻した宰相は、頬の唾を拭う。


「尊き血流れる王女が吐いた唾よ。有難く頂戴しなさい」


 アルベエラが気丈にも鼻で笑う。宰相は苛立つように右手を振るった。宰相の拳はアルベエラの頬を潰す。倒れ込んだ彼女に馬乗りになった宰相は、何度も何度もアルベエラに拳を落とした。


「お可哀想に。美しいお顔がこんなに歪んでしまった。楽にして差し上げましょう。この薬で」


 宰相はアルベエラの口元に薬を垂らす。一滴、二滴と口を通り喉へと絡みついた。ふわりと薔薇が香る。死をもたらす赤い薔薇は、確実に命を絡めとる。


「貴方の思い通りにはならないわ」

「おや、まだそんな強がりが言えたとは。貴女はあと数時間もすれば死に至りましょう。精々喚くが良い」


 宰相の笑い声が部屋に響き、廊下に続いた。軽快な足取りは、足音として廊下を支配する。アルベエラは、ゆっくりと閉じられた扉を見つめた。


「馬鹿ね。リンリエッタは私の何倍も強いのよ」


 アルベエラの瞳からは一筋の涙が零れた。

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