第20話 平民との恋2

 リンリエッタは涙を拭いながら、小さく頷いた。アデルの手が彼女の頭を優しく撫でる。


「リエーネは儂の公妾じゃったのはリンリエッタも知っておるじゃろう?」

「ええ、知っているわ」

「リエーネとの出会いは、春乞の宴じゃった」


 グルーシナ王国では、毎年冬に宮殿で春乞の宴が開催される。雪降る季節、春の精霊に扮した踊り子が宮殿を舞う日だ。


「お祖母様が踊り子だったのは知っているわ」


 祖母、リエーネの話はクライット公爵から何度も聞かされていた。国で一番の美しい踊り子であったことも。そして、その春乞の宴でアデルが恋に落ちたこともだ。


「儂はその時まだ即位なぞしていない、ただの第三王子じゃったわ。二人の兄も優秀での。儂の入る隙なんて無かったのう。兄が即位したら爵位を頂く約束もしておった。そして、リエーネを妻にする約束も、の」


 アデルは細い目をこれでもかという程細めて遠くを見つめた。そのアクアマリンの瞳は過去を見つめているかのようである。その先には壁に掛けられた大きなリエーネの肖像画が笑っていた。


「あの戦争がなければ、儂はリエーネを妻に迎えてクライットの名を手にしていたじゃろう」


 アデルは第三王子。王位継承権を持つものの、二人も兄がいる為、即位する予定は無かった。しかし、二人の兄が戦死するとアデルの即位はあっさりと決まる。勿論、そうなればただの踊り子であるリエーネを妻に迎えることなど叶わない。アデルは兄の婚約者だった侯爵家の娘と婚姻を結び即位した。


 後に第一子である現国王が生まれてすぐに、アデルはリエーネを公妾として迎え入れている。


「儂は国王になってしまったというのに、リエーネを縛り付けてしまった」

「お祖父様……」

「今でも後悔しておるよ。あの時何故リエーネの手を離せなかったのか。そうすればリエーネはどこぞの男と結婚をして幸せになれただろうに」


 アデルが小さく息を吐く。リンリエッタは気に入りのドレスのスカートを強く握りしめた。


「違うわ、お祖父様。お祖母様は決して不幸ではなかった筈よ。だって、お祖父様のことを愛していたのでしょう?」

「確かに儂達は愛し合っていた。じゃが、結婚もしてやれん儂のことをリエーネは愛してくれておったのか……」


 アデルは悲しそうに笑うとリンリエッタの頭を撫でる。リンリエッタの黄金の髪は祖母、リエーネによく似ていた。幼い頃から撫でる度に「リエーネを思い出す」と彼は良く言っている。


 アデルの自信のない顔を見て、リンリエッタは目を細める。リンリエッタの前ではいつも豪気で優しい祖父の顔をしていた。リンリエッタは不安げに揺れるアクアマリンの瞳を知らない。


「お祖父様でもそんな顔するのね」

「男は女のことになると不安にもなるもんじゃ。男と女は形も考え方も全く別物じゃからの」

「そう、だからお祖父様はお祖母様がお亡くなりになってもずっと悩んでいるのね」


 リンリエッタは肩を揺らした。自身の悩みなど吹き飛んだといわんばかりに白い歯を見せる。彼女は立ち上がると、ゆっくりと歩き出す。夜を誘うようにドレスのスカートが揺れ、太陽の光に反射して星の如き宝石が輝く。


 リンリエッタは壁に掛けられたリエーネの肖像画を優しく撫でる。微笑みを絶やさずこのサロンを見守るリエーネはまるで天使のようであった。


「お祖父様。私はお祖母様には肖像画でしかお会いしたことがないから、お祖母様の考えはわからないわ。でも、不幸だったらこんな風には笑えないものよ」


 リエーネの肖像画は他にも何点も残っている。その内の何枚かは、このサロンにかけられている物も含めアデル自身が描いたものだ。アデルの描いた肖像画は、特別幸せそうに笑っていた。


「そうかのう」

「そうよ、お祖母様だって選ぶことができたのでしょう? お祖父様から離れることも、隣にいることも。きっと、妻という立場に立てなくても、ずっと側に居たかったのよ。お祖父様のことを愛していたから」


 リエーネは答えない。ただ、変わらぬ笑顔を見せるだけだ。それでも、アデルにとって、リエーネに段々と似てくるリンリエッタの言葉には、十分な重みがあった。


 アデルはゆっくりと腰を上げ、リンリエッタの元へと歩きだす。弱った腰を庇いながら歩く姿に、リンリエッタは彼の元へと駆け寄った。リンリエッタの手を借りながら、アデルはリエーネの前に立った。


「リエーネ、許してくれるかい?」


 リエーネは答えない。しかし、代わりにリンリエッタがアデルの腕に抱き着いた。その姿にアデルは目を細める。


「そうか、そうか」


 アデルの瞳から一滴の涙が頬を伝う。暫くの間、アデルはリエーネの肖像画と見つめ合っていた。リンリエッタはその横で静かに彼を支え続ける。


 沈黙を破ったのはアデルの小さな声であった。


「のう、リンリエッタ」

「はい」

「儂は国王になってしまったが為に、リエーネと神の前で誓うことが出来んかった。じゃがな、リンリエッタはただの貴族の娘じゃ。お互いの家の了承さえ手に入ればいつでも婚姻の儀を行うことができる」


 リンリエッタは王位継承権を持たない。王位継承権を持って生まれた王家の者ならば、婚姻を結ぶ際、必ず貴族院の承認が必要となる。しかし、王位継承権を持たないリンリエッタはそれを必要としない。


「でも、お父様が何と言うか……」

「あいつは昔から頑固じゃからのう」


 クライット公爵には、リンリエッタが平民と婚姻を結ぶという考えが無い。リンリエッタがカインのことを想い続けているなどという考えに至ったことは、今まで一度だってないだろう。


「確かにあやつは頑固じゃが、何よりもリンリエッタの幸せを願っておる。正面から話せば、分かってくれる」

「ありがとう、お祖父様。お祖父様が言うとそんな気がしてくるわ。でも、そんなことする必要ないの」


 リンリエッタが悲しそうに笑う。アデルが言葉も無く首を傾げた。


「だって、カインは私のこと別に愛していないんだもの。婚姻って二人でするものでしょう? カインにその気が無いのに、お父様を説得するなんて可笑しい話だもの」

「リンリエッタ。お前さん、儂にはあんなことを言ったのに、その口でそんなことを言うんじゃな。自分のことになると分からなくなるとは言うが。ここまでか」


 次はリンリエッタが首を傾げる番である。苦笑を浮かべ顎髭を弄るアデルに向かって長い睫毛を瞬かせた。


「こんなに愛のこもったドレスを何着も贈られて、想いに気づいて貰えないとは、カインという奴も相当哀れな奴じゃな」


 アデルの目尻に皺が寄る。楽しそうに笑う彼に、リンリエッタは眉尻を下げた。


「でも、それが彼の仕事だわ」


 リンリエッタは唇を尖らせる。今までに愛の告白が成功した試しはない。大抵やんわりと断られるのだ。それだと言うのに、カインに会ったことのないアデルの、確信を持つような言動にリンリエッタは些か不満を持った。


 アデルは肩を竦めると目を細めて笑う。リンリエッタは未だ物言いたげな目で、アデルを見つめていた。


「なら、まずはカインに「好き」と言ってもらうところから、かのう?」

「ええ、そうなの。好きになって貰わないと始まらないもの」

「ならば、今から作戦会議じゃな」


 アデルは楽しそうに笑う。彼の白い髭も楽しげに揺れた。リンリエッタも合わせ頬を緩める。


 リンリエッタとアデルの長い夜は、陽が落ちてからも続いた。

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