第18話 ペリドット

 外から戻ってきたリンリエッタを待ち受けていた男に、彼女は僅(わず)かに眉を寄せた。彼の名はセルブス。グルーシナ王国の嫡子にして王太子。次の世の国王となることが約束された男だ。王族が夜会や晩餐会に足を運ぶことは殆どない。セルブスの登場はリンリエッタにとって予想外のことであった。観劇後は大人しく帰ると思ったのだ。虚を衝いたセルブスの行動は、リンリエッタを動揺させるのには充分であった。


「久しいな、リンリエッタ」

「殿下……。お久し振りでございます」


 リンリエッタは膝を折ろうとすると、セルブスはあっさりとそれを右手で制す。


「良い。私達は従兄妹ではないか」


 リンリエッタは仕方なく略式での礼を取る。セルブスの要求は、多くの者が見ている中でのものとは思えないものだ。リンリエッタが王家の血筋に近いとはいえ、臣下の身。下手をすれば「臣下のくせに」と後ろ指を差されかねない。


「相変わらず美しいな、リンリエッタ」

「お戯れを。私など、アルベエラ様には負けますわ」


 セルブスが場所など構わず、リンリエッタのむき出しの肩を抱く。深緑の双眼がギラギラとした光を乗せて彼女を見つめる。リンリエッタはあからさまな作り笑いで対応しながら、彼の胸を強く押した。しかし、男と女では力に大きな差がある。リンリエッタの細腕では、胸に手を添えた程度にしかなってはいない。


「相変わらずこのイヤリングをつけているのか」


 セルブスは、リンリエッタの耳に下がるペリドットのイヤリングを手に取った。


「殿下、おやめ下さい」


 リンリエッタは助けを求めるように辺りを見回す。しかし、殆ど抱きしめられている様な状態であっても、誰も助けてはくれなかった。相手は王太子。下手をすれば不敬では済まされない。皆見て見ぬふりをするしかなかった。


「殿下、程々にしてやって下さい。従兄とは言え、皆の前でその様に気軽な振る舞いが娘を苦しめる事、聡明な殿下ならお判りでしょう」


 誰も間に割って入らぬ中、声を掛けたのはクライット公爵だった。彼の登場により、セルブスはあっさりとリンリエッタを解放する。彼女はホッと胸を撫で下ろしながら、クライット公爵の腕にしがみついた。


「クライット公爵」


 セルブスの咎める様な視線にも声にもクライット公爵は動じない。変わらずにこにこと笑みを見せていた。


「娘はまだ結婚前の大切な時期。殿下との変な噂が立てば、良い縁談にも巡り合えないでしょう」

「そうなれば、私が妃に迎えてやっても構わない」


 セルブスの返事に、会場が騒めいた。セルブスには未だ正式な婚約者がいない。その状況下での言葉としては、意味合いが大きすぎた。リンリエッタは反論しようと口を開きかけたが、父親に制され、押し黙る。


「王太子妃ともなれば、殿下の一存では決めることができないことはご存知の筈。あまり勝手なことは言わない方がお互いの為かと存じます」


 クライット公爵が冷ややかな声で言い捨てた。セルブスはわざとらしく大きなため息と共に肩を竦めて見せる。


「そうですよ、セルブス。大勢の前で言って良い冗談と悪い冗談があります」


 会場を制す声が響く。その声は遠くの陽気な笑い声すらも凍らせる程の威力を持った冷たい声であった。


「母上」


 セルブルが親に叱られた幼い子供のような顔をする。奥の席で談笑をしていたマリエルが、重い腰を上げてゆっくりとセルブスの元まで歩く。クライット公爵がリンリエッタを庇うように間に入り膝を折る。リンリエッタも父の後ろに続いた。


 マリエルはクライット公爵の前に立つと、彼の目の前に右手を差し出す。彼は慣例に従い、マリエルの右手を取りその指先に唇を落とした。マリエルの冬の如く冷たい瞳がクライット公爵を刺す。リンリエッタはその様子に小さく肩を震わせた。


「マリエル王妃陛下。本日も大変麗しゅう」


 マリエルは、クライット公爵の挨拶を受けると、身に着けていたグローブをそっと外した。側に控えていた侍女が代わりのグローブを差し出す。


「うちのセルブスが迷惑を掛けたわね。リンリエッタさんとの婚姻だなんて有り得ないことを口走るのだから、困ったものだわ」


 マリエルは「ほほほ」と笑った。しかし、その目は一切笑ってはいない。まるで下賤(げせん)の者を見る様な目で、クライット公爵とリンリエッタを見つめていた。


「リンリエッタさんも勘違いなさらないでね」

「勿論、勘違いなどしておりません」


 リンリエッタは小さく頭を横に振る。その返事にマリエルの口角が弧を描く。


「そう、それなら良いの。行き違いや勘違いは悲劇しか生まないもの。さあ、セルブス、そろそろ行きますよ。ここは少し空気が悪いわ」 


 マリエルは形の良い眉を僅(わず)かに寄せると、クライット公爵やリンリエッタに背を向ける。それが合図となり、セルブスも小さなため息を吐きながら一歩を踏み出した。


「リンリエッタ、君の気持ちは良く分かっている」


 リンリエッタの隣を横切る際、セルブスは彼女の耳に下がるペリドットのイヤリングにもう一度触れた。


「仰る意味が分かりません」

「女が肌身離さず付ける宝石と言えば、愛する者の色と相場が決まっている」


 ペリドットのイヤリングを中指で弾くと、セルブスはリンリエッタの元から去っていった。マリエルの手を取り、他の者達と暫し会話をする様子をクライット公爵は睨むように見つめる。


「大丈夫だったかい?」

「お父様、申し訳ございません」


 クライット公爵は小さく頭を横に振り、娘を慰めるように肩を抱いた。彼女の肩はクライット公爵の腕の中で小さく震えている。


 リンリエッタはその日、会話やダンスを楽しむ気にもなれず、比較的早くに抜け出した。


 馬車の中、暫しの沈黙を破るようにクライット公爵が口を開く。


「今日は散々だったね」


 彼の向かい側に座るリンリエッタは、答え代わりに眉尻を下げて肩を竦めた。


「殿下の振る舞いにも困ったものだ」

「お父様、不敬に当たってしまうわ」

「ここはそういう内緒話には適しているだろう?」


 クライット公爵は子供の様に笑う。二人きりの馬車の中は秘密の会話をするのにはもってこいの場所だ。


「お二人が晩餐会まで参加するなんて予想外だっから、気が緩んでいたの。ごめんなさい」

「いや、仕方ない。彼を止めるのは難しいからね。もう二十五だというのに次期国王だという自覚が足りないんだ」


 リンリエッタは返事をはぐらかすように、苦笑のまま肩を竦める。セルブスのことを援護する言葉がリンリエッタには見つからない。ここ数年、会えば異様に絡まれているのだから仕方なかった。


「殿下はご結婚してもよろしい年でしょう?」

「ああ、貴族院と殿下が揉めていてね」


 王太子妃の選出に関しては五年も前から揉めに揉め、拗れたままだ。会議に会議を重ねた結果、貴族院からは数名の令嬢が選出された。しかし、セルブスはその中の誰一人気に入らないらしく、五年もの間渋っている。年頃の令嬢も五年も経てば慌てだす。しかも王太子妃の席に座れるのはたった一人。選ばれなければ行き遅れ。そうなれば、良い縁談は望めないだろう。


 その内の一人は、運よく第二王子妃の席を手に入れた。それもつい最近のことだ。一人が王太子妃の次に良い縁談に決まった影響か、令嬢達も彼女達を推薦した貴族達も慌て出している。


「そんなに妃候補が嫌なのかしら」

「どちらかと言えば、別の令嬢に気があるんだろうね」

「あら、その方では駄目なの?」


 リンリエッタは首を傾げる。もう五年も拗れているのならば、セルブスの気に入った令嬢と婚姻させれば良い。身分が、というのであれば、然るべき家に養子に入れば問題ない筈だ。どこの家が受け入れるか程度の問題だろう。


 クライット公爵は暫し黙り込んだ後、眉尻を下げた。


「リンリエッタは王太子妃に興味があるのかい?」

「何故?」


 リンリエッタはクライット公爵の言葉に再度首を傾げた。


「私が彼を苦手なの、お父様も知っているでしょう?」


 リンリエッタは唇を尖らせた。クライット公爵はただ苦笑を浮かべる。


「すまない、聞いてみただけだよ」

「もうっ。冗談でもあんなこと聞いては嫌よ」


 リンリエッタが子供の様に頬を膨らませる姿を見て、クライット公爵は眉尻を下げるしかない。


「彼も哀れな男だ」

「お父様?」

「いや、何でもないよ。今日も寒いね」


 クライット公爵は話を終わらせるように、窓の外に目をやった。曇ったガラスを手で擦る。冷えた水滴がクライット公爵の指を濡らした。

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