第17話 ドレスと踊る夜

 艶のある青が人目を惹く。リンリエッタはいつもと変わらぬ笑顔でオペラハウスの門をくぐった。エスコートは相変わらず父、クライット公爵が務める。その様子に数名がホッと息を吐くのは日常茶飯事となっている。父親が彼女をエスコートしている限り、特定の相手ができていない証拠だからだ。


 天鵞絨(ビロード)の絨毯を撫でるドレスは、リンリエッタが動く度に上品な艶を放つ。左腰で左右に分かれたスカートの奥からは、白と青のシフォンがミルフィーユを作った。その左腰にはドレスと共布で作られた大きな薔薇が一輪。胸元はシンプルに白の蝶が宝石の鱗粉を撒きながら、薔薇に向かって飛び立つ。右肩のみのワンショルダー。それ以外、彼女の肩から手首までを守る物は何もない。リンリエッタの白い肌が露わになっている。手首までのグローブは、ドレスと合わせた青のレース。手首には、真珠のブレスレットが煌めいていた。


 リンリエッタが側を通れば、ふわりと香る甘い匂いに皆、吸い寄せられるように惚けてしまう。

 役者よりも目を引く彼女は、ロイヤルボックスのすぐ隣、クライット公爵家専用のボックスの中へと入ると、すぐさま椅子に腰を下ろした。


「お父様、今日はどなたかいらっしゃるのかしら?」

「セルブス王太子殿下と王妃陛下だったかな」

「そう、だからこんなに人が多いのね」


 リンリエッタはぐるりと会場を見渡す。劇場に集まった人々は、まだ開かない幕が下がる舞台よりも、ボックス席に興味があるようだ。


 リンリエッタは笑顔のまま、小さく息を吐いた。


 王妃マリエルはクライット公爵家を毛嫌いしている。それは、クライット公爵が庶子であることが原因だ。その事を幼い頃から感じていたリンリエッタは、王妃の事をあまり良くは思っていなかった。


 王妃とは反対に、息子のセルブスはリンリエッタの事を異様なまでに気に入っている。会えば茶々を入れ、リンリエッタを煩わせていた。それがまた王妃の勘に触るのは言うまでもない。リンリエッタにとって、マリエルとセルブスはできる限り関わり合いたくない相手である。


 リンリエッタの小さなため息がクライット公爵の元まで届くと、彼は眉尻を下げた。


「リンリエッタ」


 咎めるような声色で、クライット公爵が窘(たしな)める。リンリエッタは小さく肩を竦めた。遠くからは親子で楽しそうに会話しているように見えるだろう。


「まだ何も言ってないわ」

「決して言ってはいけないよ」

「分かってます。それより、今日の演目は何かしら? お父様知っていて?」

「……身分差の悲恋だったかな。たしか……『スチュアートの恋』」


 開幕の合図がリンリエッタの開きかけた口を閉じさせる。幕が上がったと同時に、クライット公爵が舞台へと目を向けた。


『スチュアートの恋』は騎士と伯爵家の令嬢の儚い恋物語。二人を別つ令嬢の政略結婚。そして、再会。彼等は人目を忍んで睦み合う。


 リンリエッタは舞台に釘付けになっていた。大抵の場合、観劇とは名ばかりで、気に入りの役者が登場した時や、流行りの曲が流れた瞬間に目を向ける程度。内容だって、風刺的な意味合いが強い。この『スチュアートの恋』も、ある侯爵夫人の浮気を悲恋風に描いたものだ。


 宗教的に離婚が許されないこの国の貴族の中には、愛人を持つ者も多い。貴族にとって結婚は家同士の繋がり。恋だとか愛だとか言えるようなものではなかった。だからこそ、貴族達は後継が出来ると愛人を作る。まるで、本来の幸せを取り戻すかのように。


 しかし、『スチュアートの恋』に描かれたとある侯爵夫人は、後継を生む前に騎士との恋愛に溺れてしまった。しかも、その男の子供まで身籠って。


 その話がリンリエッタの耳に届いて久しい。瞬く間に広がった噂。劇の題材にされるのも致し方なかった。リンリエッタがボックス席を見回せば、大きな腹を抱えた侯爵夫人が侯爵と共に真顔で舞台を見つめていた。そんな姿を見たリンリエッタは、笑顔を貼り付けて奥歯を噛みしめる。


 盛りに盛られた作り話。それでも、アクアマリンの瞳からは一筋の涙が零れた。


 件の侯爵は夫人の臨月を理由に、観劇後の晩餐を辞退して帰っていく。それが他の貴族達の口に火をつけた。


「卿もお可哀想に。腹の中にいるのは自分の子ではないのだろう?」

「先日それを知らずにリーデン卿が夫人のお腹を見てお祝いの言葉を贈ったそうじゃないか」

「まぁ、彼本当は知っていたのでしょう? 卿の子じゃないって」

「あの二人は仲が悪いからな。その可能性もあり得る」


 リンリエッタを取り囲んで、噂話に花を咲かせるのは、どれも家格の高い紳士淑女。リンリエッタ――ひいてはクライット公爵に取り入りたい者ばかりだ。


 よく回る口を眺めながら、リンリエッタは笑顔の仮面を貼り付けた。しかし、笑顔とは反対に手に持ったグラスの脚(ステム)を忙しなく撫でている。


 同じ話を繰り返す彼らを前に、リンリエッタはため息をワインと共に流し込んだ。そして、空になったグラスを目の前に翳(かざ)す。


「酔ってしまったみたい。少し外で涼みます」

「でしたら、私に庭園までエスコートをお任せ下さい」


 逃がしはしまいと、男が手を恭しく差し伸べる。抜け駆けをした男を周りの男達が睨んだ。エスコートをする権利を獲得できるのはたった一人。この様な機会はまたとない。他の男達も我先にと手を差し伸べた。


 そんな様子にリンリエッタは苦笑を浮かべ、小さく頭を横に振る。


「ありがとう。でも、エスコートは間に合っていてよ」


 リンリエッタは空になったグラスを一番近くに立つ男に預けると、緩く笑みを浮かべて一人で会場を横切った。呆然と見つめる男達の視線を浴びながら確かな足取りで庭園へと向かう。後姿には、「後を着いてくるべからず」と書いてあるかのように、誰も彼女の後には続かなかった。


 会場の外、庭園へと続く扉を開けると、冷たい風が剥き出しの肌を包む。熱を帯びた身体が一気に冷やされるのを感じながら、リンリエッタは身震いした。


 美しい月がリンリエッタを照らす。そんな時、会場の陽気な笑い声が彼女の耳にも届いた。冬の庭園には人がいない。恋人との逢瀬に使うには寒すぎる。


 本来ならば、エスコートの大役を得た男が、上着を脱いで肩に掛ける絶好の機会だ。しかし、彼女のエスコートをすることが許されたのは青のドレスただ一人。冬の庭園には似つかわしくないそれは、リンリエッタの髪の毛と共に風に揺られるのみであった。


「恋なんてするものじゃないわね」


 自嘲の色を浮かべながら、空虚に声をかける。葉を落とした木々が返事を返すことはない。


 自身を抱きしめれば、ドレスの存在感が増す。それは、数日前までカインが毎日見つめていたものだ。最後の試着の際、満足げに頷くカインがリンリエッタの脳裏に過ぎる。


「可哀想な人。貴方、自分で作ったドレスが一番輝いている時を知らないのね」


 リンリエッタは笑い声を漏らしながらも、今にも泣きそうな程顔を歪めた。仕立て屋であるカインが目にすることができるのは、試着の際と馬車に乗り込むまで。そして、夜会が終わり馬車から降りてからだ。ダンスに合わせて踊るドレスも、沢山の明かりに照らされて輝くドレスも彼は見ることが叶わない。


 クライット公爵は社交の為に夜会に参加することはあっても、己の屋敷で夜会や晩餐会を開催したことはない。彼は自身の影響力をよく知っていた。彼は王位継承権こそ持たないが、前国王の息子にして現国王の弟。威を借りるにはこれ以上の相手はいない。下手を打てば、己が争いの種になる事をよく理解している。


 リンリエッタが社交界にデビューしてからは、エスコートの為に参加してはいるが、大抵は壁の染みに徹している。挨拶に来る貴族達と軽く話をした後は、大抵リンリエッタの様子を見守っていた。


 リンリエッタがデビューしたての頃は、娘を心配する父親として映っていた様だ。しかし、リンリエッタが社交場に慣れてくると、侍女に任せてどこか別室でゆっくりと過ごしていることも多くなる。すると、「娘と違って社交嫌い」と噂になった。


 きっとこの先も、クライット公爵邸で夜会や晩餐会が開催されることはないだろう。カインがドレスのエスコートを目にすることも、美しく輝くリンリエッタを見ることも生涯叶わない可能性がある。


 カインは社交場でのリンリエッタを知らない。彼が知っているリンリエッタは、いつも屋敷で楽しそうに笑っているただの令嬢だ。


 愛する人の手を取れない虚無感に、リンリエッタは冬の乾いた空気を握った。


 一際輝く満月のスポットライトがリンリエッタを優しく照らす。会場からはダンスの為の音楽が漏れ聞こえた。


 リンリエッタはスカートを摘まみ礼を取る。それは、まるでダンスが始まる前のようであった。しかし、庭園には彼女ただ一人。彼女の目線の先には冬の風が漂う。


 色褪せた庭園と美しい青のドレス。リンリエッタは月明かりの下でクルクルと回る。それは誰かとダンスを踊っているかのようであった。


 リンリエッタに遅れて付いてきたスカートはクリノリンに巻きついて平静を取り戻す。


 吐く息が白く濁る。朱に染まる頰は高揚からか、寒さからか。リンリエッタはゆっくりと冬の空気を吸い込んだ。


 どんなに求めても、今求めている相手は現れない。リンリエッタは今、自身を抱き締めて肩を震わせることくらいしかできなかった。

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