第10話 硬いパン
クライット公爵家は慈善活動に積極的であった。その活動は、教会への支援から画家等の芸術家への支援まで多岐に渡る。月に二度、リンリエッタは母親と共に支援している教会に顔を出す。彼女はその日をいつも楽しみにしていた。
籠一杯のパンを用意した侍女が、リンリエッタの前を通る。侍女がリンリエッタに気づいて足を止めた。大きな籠が邪魔をして、上手く挨拶ができないでいると、リンリエッタは「いいのよ」と小さく笑う。
「婆や、ご苦労様」
リンリエッタは籠の中から一つパンを取ると、噛り付いた。
「これ、お嬢様。はしたない」
「一度食べてみたかったの。良いでしょう?」
リンリエッタは一欠けらのパンを飲み込む。悪びれない笑顔に年老いた侍女は、顔に皺を寄せた。
リンリエッタが生まれる前からクライット公爵家に仕えるこの侍女は、リンリエッタにとっては気心の知れた使用人の一人だ。
リンリエッタは謝る代わりに、唇の間から僅(わず)かに舌を出して笑う。
「あまり美味しくないのね」
リンリエッタが口に含んだパンは、毎朝口にしているパンよりも硬い。彼女は欠けたパンを眺めながら眉尻を下げた。
「お嬢様がいつも食べている物とは違って当たり前ですよ。あの子達の舌が肥えても、良い事なんて有りませんからね」
侍女は目を細めて笑う。用意されるパンはいつだって使用人が口にする物の余りであった。出来立てとは違い少し硬くなったパンは、とてもそのまま口にすることはできない。スープでもあれば別だろう。
リンリエッタはパンの硬さを確かめるように、何度も指の腹でパンを揉んだ。
「難しいのね」
クライット公爵の料理場であれば、教会に住む孤児達の食べるパンなどすぐに用意できる筈だ。わざわざ数日置かれたパンをかき集める必要等無い。それでも、クライット公爵家が孤児達に用意するパンはいつだって硬い。それは、彼らなりの優しさであった。
「私、こんな硬いパンをあげてお礼を言われているのね」
リンリエッタはいつも、孤児達にこのパンを手渡す。彼女の記憶にある彼らは、パンを受け取る際、キラキラと目を輝かせていた。受け取ったパンを大事そうに小さな手で包み込むと、頬を緩めて「ありがとうございます」とリンリエッタに真っ直ぐな目を向けるのだ。
「まあまあ。お嬢様が落ち込む必要なんてないんですよ。あの子達にとってはこれだって十分な贅沢なんですから」
リンリエッタはもう一度パンに噛り付く。硬くなったパンは水分を奪い、なかなか口の中で溶けてはくれなかった。
「婆や。本当、美味しくないわ」
「お嬢様には縁の無いパンですよ」
「何だかこのパンでお礼を言われるのは忍びないわね」
「では、辞めますか?」
きっと、教会に住む孤児達はリンリエッタがパンを配ることを辞めても、彼女を非難することは無いだろうと侍女は笑った。クライット公爵家は多くの寄付を教会にしている。孤児達が毎日食事にありつけているのは、クライット公爵家の支援が有ってこそ。リンリエッタの不評を買えば、明日食う物にも困るのだという事を、子供達も大いに理解しているのだ。
リンリエッタは即座に頭を横に振る。
「あの子達が『いらない』って言うまでは続けるわ」
「では、このパンの味はお忘れ下さい」
侍女はリンリエッタの手からパンを奪う。空になった手を見つめるながら、リンリエッタは小さく返事をした。
「リンリエッタ様。ありがとうございます」
輝く瞳は真っ直ぐに、リンリエッタに向けられる。彼女の前に並んだ小さな子供達は、教会に世話になる孤児だ。事故や病気で親を失った子供から、親から手を離されてしまった子供まで。教会に世話になる理由は様々だ。皆、細くて小さな手には余るパンを大切そうに抱く。リンリエッタは今朝食べたパンの味を思い出しながら、笑顔を返した。
「大きくなってね」
街の子供よりも一回りは小さい少年の頭をリンリエッタは優しく撫でる。
「はい! 僕、もっと大きくなってリンリエッタ様のこと守れるようになります!」
「まあ、頼もしいわね」
少年は頬を朱に染めて、リンリエッタを見上げた。後ろの少女に追いやられるまでの暫しの間、少年はリンリエッタとの短い会話を楽しんだ。
今日のリンリエッタが行う慈善活動は、この孤児達の相手で終始する。リンリエッタは彼らにこの国の歴史や、文字の読み書きを少しずつ教えてきた。そして、彼らの話に耳を傾けるのだ。
大抵、リンリエッタが孤児達を相手にしている間に、母であるクライット公爵夫人エリーゼが神父らと教会を見てまわり、修繕が必要な箇所を確認する。リンリエッタが子供達と遊んでいる間に、次の寄付金の相談まで終えるのだ。
「それでね、ジット君は侯爵様がね、連れて行っちゃったの」
リンリエッタの周りには孤児達が集まり、話を始める。彼女の隣という特等席を手に入れたのは、まだ十歳になったばかりの少女だ。嬉しそうに頬を緩めながら、リンリエッタに寄り添い、懸命に頭を上げる。「あのね」と話す少女に、リンリエッタも耳を傾けた。
少女の話は最近教会を出た少年の話に終始する。余程仲が良かったのだろう。少女よりも三つ年上のジットという名の少年が、侯爵家の使用人として選ばれた。彼女はそれを寂しく思っているらしい。
「先月はミーシャも連れて行っちゃったんだ」
近くに座る少年が話に交わり肩を落とす。
「同じ侯爵様が?」
「うん。そうだよ」
リンリエッタが首を傾げると、少年は大きく頷く。侯爵と名乗る男が度々、孤児を使用人として連れて行くという。孤児を小間使いとして育てることが無い訳ではないが、その侯爵は他の貴族よりも積極的に孤児を雇っているようだ。
「侯爵様のお名前は分かる?」
「とっても偉い人だって神父様が言ってた!」
「そう、ありがとう」
リンリエッタは目を細めて笑う。彼女に礼を言われた少女は満更でも無さそうに、頬を持ち上げた。
皆の見送りを受けながら、リンリエッタは母と共に、教会を後にする。
帰り際、小さな少女はリンリエッタに縋(すが)りついて「もっとお話しがしたい」と声を上げて泣き出した。駄々をこねる少女を三人がかりで引きはがす姿を見ながら、リンリエッタは別れの言葉を贈る。それを止めるように別の少年が、リンリエッタの背を追った。
「リンリエッタ様」
リンリエッタが足を止め振り返ると、大きなバスケットが彼女の目の前に現れる。バスケットには小さく折りたたまれた紙と、冬には珍しい花が咲いていた。
リンリエッタが少し膝を折り、少年と目線を合わせる。孤児の中では年上の少年は今年十五になった。そろそろ教会から離れ、一人で生きていかなくてはならない年だ。
「何かしら?」
「いつものお礼です」
少年の瞳がリンリエッタを映し出す。瞳の中の彼女は、薄っすらと笑みを浮かべた。
「ありがとう。嬉しいわ」
「あのね、皆でリンリエッタ様にお手紙を書いたの!」
少女が言葉を付け足す。花と共にバスケットに埋まる小さく折りたたまれた紙は、彼らがリンリエッタに宛てた手紙だ。大量のそれに、彼女は頬を緩ませた。
教えた文字で書いた手紙は、リンリエッタにとっては感慨深いものだ。初めて会った頃には、彼らは生きていくことに必死で、文字等に興味がなかったのだから。
「まあ、とっても嬉しいわ」
リンリエッタはバスケットを大切そうに抱いた。
馬車の中、リンリエッタは母と向かい合う。厳しくも優しい母のお小言は、いつだって二人きりの時だ。だからこそ、リンリエッタは身構えた。いつもより背筋が伸びているのはその為だ。
「お父様に結婚は嫌だと言ったんですって?」
「まあ、お母様。お耳が大きいのね」
リンリエッタは誤魔化すように笑みを作り、わざとらしく肩を揺らした。エリーゼは咎めるような視線をリンリエッタに向ける。
「あまりお父様を困らせては駄目よ。リンリエッタ」
「困らせてはいないわ。私、まだ二十よ。焦らなくても良いと思うの」
「お母様は貴女の年には、貴女を抱いていたわ」
「お母様が特別早かっただけよ。アルベエラだって、まだ婚約者もいないじゃない」
エリーゼは十八になってすぐにクライット公爵と婚姻した。十八での結婚はこの国の貴族女性の中では、比較的早い方ではある。リンリエッタの言葉通り、二十で未婚であることはまだ恥じるには早すぎる年であった。しかし、大抵の場合親同士の口約束で取り決めた婚約者の類いはいるものだ。
リンリエッタにはそのような相手はいない。両親が彼女にとって最良の選択ができるようにと、敢えて婚約者を決めなかった結果だ。
リンリエッタの従姉妹に当たる王女アルベエラもまた、婚約者の類いは決まっていなかった。
「本当に困った子ね。年老いて独りは寂しいわ。貴女には共に生きてくれる人が必要よ」
「お母様。私は独りではないわ。ドレスはいつだって私を独りにしないのよ」
リンリエッタは笑顔で、自身のドレスを撫でる。慈善活動に使う落ち着いた色のドレスが僅(わず)かに揺れた。それは、社交場では見ることの無いような地味なドレスではあったが、リンリエッタを優しく包み込んでいる。エリーゼは眉根を僅(わず)かに寄せた。しかし、リンリエッタが今以上のお小言から逃れるように、窓の外に顔を向けたことで、大きなため息だけが馬車を支配することとなった。
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